あんこ人形創始者は藤井重丸 
 
大島の古い新聞(昭和6年発行『島の新聞』)にこんな記事が載っています。
「大島いろはかるた」に 【 き 木彫の元祖藤井重丸 】 と当時の農民美術講習会に係わっていた「島の新聞」発行責任者の柳瀬善之助氏は詠んでいます。
また、大島在住の版画家本多保志さんが「木村五郎とあんこ人形と私」という聞き取り調査文に「観光が盛んになりはじめた大正の終り頃、大島のみやげは月出商店の絵葉書くらいしかなかった。大正14〜15年頃に岡田に藤井重丸という絵描きが住んでいた、重丸さんに杖を彫らせた・・何かおもちゃを作ろうと、今のこけしの様な丸い人形を作ったり木炭人形を作ったりした」という岡田在住の白井潮路さんの話が載っています、白井さんは藤井重丸を支援した一人です。
 どうやら藤井重丸という芸術家が大島に住んで人形を作っていたらしい、という不確かな情報だけだった私に平成21年大晦日の晩、何の前触れもなく一通の吉報のメールが届きました、それが重丸氏の縁者である今田保さんとの音信のはじまりでした。
「シゲ○さん、貴方は画家の勉強をどこされたのですか、何故大島に来たのですか、いつから大島に住みどんなものを作ったのですか、彫刻家木村五郎を知っていますか」私がずっと聞いてみたかった質問の答えがすべて明かされました。
  そして重丸氏の命日が6月16日です、縁者の方と資料の存在を知ってから約半年、ちょうど七十七回忌にあたる平成22年6月13日から27日まで縁者の方々の協力を頂き当資料館で藤井重丸作品・資料展を開催することができました。
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 農民美術の世界  *

 少し長くなりますが

 手記「藤井重丸伝」(重丸縁者の今田保)と藤井重丸を知り資料展を開くまでは「あんこ人形誕生記」(藤井虎雄)で紹介(このページです)


資料展後の展開については 

 (追加資料ー 追悼からの記事 ブログ抜粋 リンクしてますのでクリックください
                                         でごらん頂きます

 闇に忘れ去られようとしていた「藤井重丸の足跡」が永遠の記録としてここに記されています。
 
  

                  藤井重丸 それは大島の宝です

   

   下の作品は明治生まれの重丸氏が25才の頃に描いた大島の風景です なんという才能でしょうか
     
     


藤井重丸 大島の風景・資料展
シゲ○さんはあんこ人形創始者 七十七回忌記念展
会期 平成22年6月13日から6月27日 

 
       


  
大島あんこ人形の創始者「藤井重丸」伝

                      藤井重丸の従弟「今田二郎」の子

                                  今田 保

 

 その生い立ち

 藤井重丸は1904(明治37)年12月20日、現在の福島県会津若松市で生まれた。
父親の名は昇、母親の名は愛であり、その長男としてであった。愛の実家は旧会津藩士の今田家であり、愛の父親・今田保亮(いまだほりょう)の名が、市内の飯盛山の白虎隊士の墓の建立碑に、発起人のひとりとしてその筆頭に刻されている。なお、昇の職業は不明である。ただ、残された写真からは学校の教師であったような雰囲気を感じる。また、重丸の幼き日の写真からも、縁者としては僭越な言い方ではあるが,それなりの生活水準が感じられる。しかし、昇は重丸誕生のわずか5ヵ月後の1905(明治38)年5月13日に急死する。よって、愛はひとりで重丸を育てていかなければならなくなったわけであるが、再婚話が舞い込み、1909(明治42)年2月16日、福井県坂井郡丸岡町の布施家に嫁いだ。相手の布施信は、写真からは軍人であったと推察される。ただ、この条件が重丸をも引き取ることはできないという厳しいものであったようで、愛は泣く泣く、重丸を実家に託すことになる。よって、重丸は4歳2ヵ月にして、愛の実兄であり、鉄道員であった今田勝與(いまだかつよ)の家に引き取られ、その家族の一員として育てられることになった。なお、勝與の妻・ヤエは福島藩板倉3万石の城代家老・松原家の次女であった。今田家にはこの養父母と、その長女・イネ(重丸より1歳年上) ほかがおり、勝與は鉄道員として、北関東、東北の各地を転々とした。それらは栃木県の黒田原駅、福島県の桑折(こおり)駅、同本宮駅、山形県の上山駅(現・かみのやま温泉駅)、同赤湯駅であり、一家はそれらの駅の鉄道官舎住まいであったのである。かみのやま温泉駅(現在では山形新幹線の駅)の駅長室には,第8代駅長としての「今田勝與」の名札がかかっている。これらの各地での生活のなかで、重丸が通った学校として判明しているのは、福島県桑折町立桑折尋常高等小学校、福島県立福島中学校(現・福島県立福島高校)である。
福島へは本宮から汽車通学していたと思われる。その重丸であるが、生来絵を描くことなどがたいへん好きであったのだろうが、中学校3年のころより、芸術で身を立ててみたいという欲望が強くもたげてきたようだ。これは後に、重丸の死を伝える、当時の「大島新聞」にも記載されており、福島中学校時代に残した作品からも立証される。そのころ今田家には、弟分の二郎および三郎、妹分のタツおよびマスもいたが、三郎などは学校から絵の宿題が出ると、よく重丸に頼んだという。ただ、いつもあまりに上手に描いてしまうので、「下手に描いてよ」というのが口癖であったというマス(私・今田保の叔母。健在)の証言がある。


 
大島での創作活動

 そして、1924(大正13)年4月ごろ、重丸は19歳にして初めて上京した。芸術の道をめざすべく、その第一歩であったと思われる。訪ねた先は、養母のヤエの実妹・フミが嫁いでいた浜田家であった。その当主の浜田盛毅は東京物理学校(現・東京理科大学)の美術の教官であったのだ。重丸から「母ちゃん、東京へ行きたい」(養母を「母ちゃん」と呼んでいたというのも、マスの証言)と言われたヤエは、「それなら浜田の家へ(もしくはフミのところへという言い方)行け」と言ったにちがいない。浜田夫婦はこのとき20代後半で、当時はまだ子供がいなかったことも幸いしたのだろう。浜田盛毅は物静かながら、たいへん面倒見のよい人物であったとの証言もある(浜田フミの実姪・小林裕子の談)

その浜田盛毅から伊豆大島行きを勧められたのではないかと推察されるのである。当時(大正末期から昭和初期にかけて)の伊豆大島は、多くの芸術家、文人の集まるところとなっていたとのことだが、「風景も気候も人情もすべてがすばらしいところ。幸い、私の親しい友人もいるから連絡しておく。ここで英気を養い、創作に励んでみてはどうか」などと。重丸は早速、東京の霊岸島から船に乗り、初めて伊豆大島の土を踏んだ。そしていっぺんで気に入り、移住を決意した。準備を整えた後に再渡航、島の方々の支援もあり、岡田村(当時)九番地・小学校下に草庵を構え、創作活動に入ったのである。折しも大島には観光ブームが訪れつつあるころで、重丸は「あんこさん」に注目し、この木彫り人形の製作を開始した。さらには、大島の情景を描いた版画・絵画・絵はがき・タオル・ハンカチなども手がけ、観光客に販売するようになったのである。残された作品からはわずかながら小説風の記述も見られる。なお、作品には「シゲ○」なるサインを入れるのが常であった。また、この当時の交友関係には、第2次世界大戦後に子供向けの雑誌や絵本で活躍した画家の伏石繁男、貝殻などの南洋生物収集家の山村八重子、さらには大島に木彫り人形を本格的に広めた、農民美術運動の指導者である木村五郎もいたことも判明した。当時の大島のカルタには「木彫りの元祖 藤井重丸」というのさえあったとのことである。しかしながら、生活はたいへん苦しかったようだ。残された手紙には、島の人に金銭的に支援してもらっているとの件もある。そんななか、重丸は病に罹った。当時は不治の病と言われた結核である。それでも重丸はなんとか頑張っていた。しかし、1932(昭和7)年11月のある日、大島を襲った大風害で草庵が吹き飛ばされ、やむなく重丸は会津若松に帰った。鉄道員生活を終えた養父・勝與は先祖代々の実家に戻っていたわけだ。こういうなかでも、重丸は木を鍋で煮てやわらかくし、木彫りに励んでいたという(これもマスの証言)。また、養母・ヤエは家族に結核が移らぬよう、別室との間には衝立を用意したとのことである。これで防げるものではないだろうが、幸い家族には伝染しなかった。

 

 大島に死す

 重丸はやがて再び大島に戻ることになった。島の方々の支援で再び草庵を構えることができたのである。そして病と闘いながら創作に励んだ。もう終の棲家と心に決めていたにちがいない。しかし、1934
(昭和9)年6月16日、もう無一文という状態のなかで、石幾組(いしいくぐみ。石工の仲間)を中心とする島の方々に看取られながら、ついに不帰の客となった。そして野田浜の岩場で荼毘に付された。数え年31歳とはいうものの、満年齢でいえば29歳という若さである。さぞや無念であったろう。遺骨は養父・勝與と従弟・二郎の手で会津若松に戻り、今田家の菩提寺である福證寺に埋葬された。このとき、「じゃー、お母さん。これからお寺に行ってくっから」(東北弁)と、勝與は母・キヨ(保亮の妻)に言った。するとキヨは「真直ぐに行けよー」と応じたという(マスの証言)。「真直ぐに」とは意味深な言葉である。実はキヨは6月16日から6日後の6月22日に亡くなっているのだ。76歳というから、年齢から来る衰弱(あるいはすでに病身)もあったであろうが、実の孫に先立たれた衝撃はいかばかりであったかと。
 短い生涯を必死に生きた重丸。「惜しい、まことに惜しい人物であった」とは二郎の言であり、「美術学校へでもやれたらよかったのだが」という勝與の言も聞き及んでいる。それにしても重丸は、何を思って「あんこ人形」を彫っていたのであろうか。それは「ひたすら、生き別れした母・愛の面影を追って」ではないかとは、私・今田保の妻である久代の推測である。その愛は重丸が10歳のとき、27歳の若さで亡くなったという。その死は重丸にどう伝えられたのであろうか。あるいは伝えられなかったのであろうか。いずれにしても重丸は母・愛よりは長く生きたのである。

     
 父 藤井昇  母 藤井愛と重丸  大島に移り住んだ頃の重丸

 

[付記]


 現在62歳の私にとって、「藤井重丸」という名は、幼き日からたびたび聞かされてきたたいへんビッグな存在でありました。しかるに、世の中一般では全くの無名の存在でありました。活躍舞台となった伊豆大島においてさえ、いまではその名を知る人は皆無に近いのです。父・二郎が30年くらい前に、伊豆大島における重丸の足跡を探したことがありました。そのとき接触したさる方から「名は聞いたことがあるが、何も残っていない」との返答で、我が家としてはこれまでということでありました。私も仕事や家族旅行で伊豆大島を訪ねたことがありますが、これを受けて何かを探すなどということはしませんでした。ところが、2009年の秋、インターネットで何気なく「藤井重丸」と検索してみたのです。すると、かつては何も出てこなかったのに、「あんこ人形誕生記」なるサイトに、「平成12年刊行の『大島町史通史編』にその名が取り上げられたが、作品等は一切残っていない。〜〜。するとそれを読んだ長野県のさる方から作品の寄贈があった。〜〜。しかし、重丸のルーツをたどる手掛かりは見つけられない」との記載を見つけたのです。まことに驚天動地の思いで、思わず涙が出ました。探しておられる方がいる。そして我が家には本人の写真をも含む資料・作品類が百数十葉もある。2009年の大晦日にメールをしました。その相手の方が、「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館」の館長・藤井虎雄さんです。「重丸」と同じ「藤井」という姓は全くの偶然ですが、ご縁を感じずにはいられません。さらに、世の中でたった一人探している人がいて、それにただ一人応えることができる人がそれを見つけ、ましてや直接連絡してくるなどというのは、奇跡以外の何者でもないそうです。私もそう思います。そういうわけで、その時から始まったメールのやりとりと、一度の訪島から、この「藤井重丸」伝も生まれ、資料展開催にこぎつけることができたのです。それまでは、ただ資料があるというだけで、詳しい分析はしておりませんでした。また、東京の我が家にかくも古い資料が残っていた理由は、第2次世界大戦で空襲の惨禍を受けなかった会津若松の旧家からそっくり移動でき、父・二郎がそれを大切に保管していたからであります。
 藤井虎雄さん、そして『大島町史』に初めて「重丸」を取り上げてくださった「大島町文化財保護審議会委員・大島町古文書研究会会員」の時得孝良さん、さらにあれほどまでに「重丸」に思いを寄せていた亡父・今田二郎に謝意を表します。奇しくも2010年6月16日は「重丸」の七十七回忌にあたります。このような節目に資料展を通じて「大島あんこ人形の創始者」として顕彰され、野田浜の岩場で法要が執り行えることは、縁者としてこのうえない喜びであります。

                               [2010年6月記す]


             
                           大島岡田村の草庵にて
                 イスに坐る重丸さん 左は七つ年下の従弟今田二郎
 

あんこ人形誕生記   藤井工房 藤井虎雄

              

あんこ人形つながり

 

私の父は60年であんこ人形を12万体彫り続けた職人でした、平成8年に90で永眠しましたが元町港近くの店頭で83才まで彫刻の実演をしながら暮らしていました。

島の有志が十四年前に掘り起こした「彫刻家木村五郎の足跡」から父が彫った「あんこ人形の原型」が昭和4年に大島で開催された農民美術講習会で伝授されたもので、その時の講師が日本美術院彫刻部の木村五郎であったことを知りました。

十年程前、大島の古い新聞に物故の記事が掲載されているのを見たことがあります、原文をそのまま引用してみます。
 

 《藤井重丸君逝く 大島風俗木彫人形創始者》 島の新聞 昭和9年266号
 【大島風俗木彫人形創始者としてその天才的風格をうたはるる岡田村九番地藤井重丸君(三十一)は病遂にいえず十六日朝その仮の住居において石幾組其他近隣の人達の手厚い看護の下に不帰の客となった。
同君は福島県会津の産、幼にして父母に離れ不遇の運命の中にも芸術的天分強くようや大く中学三年の頃より益々そのひらめきにして自らも画家として立つべく決心一夏休暇を利用して大島に遊びこの土地の人情厚く住み良きを知りて再び渡島、岡田村柴潔、新角、川島市右衛門、白井蔵太郎、本社潮路故白井吉三郎等諸氏の同情によりて草庵をかまへ一路画道に精進するかたはら木彫りをはじめ生活をたつるに至ったものである。
尚君が手によりて創案されしものには、木の実人形、木版画絵ハガキ、挽物彫刻、風俗版画タオル並にハンカチ等枚挙にいとまなくいずれも大島土産として遊覧客をして喜ばしむるものが多かった。然れども同君も亦芸術家多分の通有性にもれず常に物質的には恵まれず一昨年十一月大風害にその仮寓を吹きさらはるるに及んで一時帰郷再び病を得てここを安住の地と決める頃には文字通り懐中無一物にて又しも同村有志の同情によって居を結んだ如き有様であった。
今回臨終に際しては特に石幾組の親切は肉親以上にして村内の評判である。】

 

 ということは、木村五郎が来る前から重丸氏によって木彫人形が作られていたということになります。この新聞の編集者は柳瀬善之助、大島農民美術組合の役員をされた方で、農民美術に関する記事を「文化活動」として何度も紹介しています。大島町史通史編(平成12年発行)でも藤井重丸に触れていますが、「・・他界するとともに彼の仕事も彼自身も忘れられ、昭和初年の彫刻家木村五郎の指導によって、大島農民美術組合が結成され木彫り風俗人形の製作は本格化する」とだけ書かれていました。

当時結成された農民美術組合員の中に彼の名はなく講習会に出席した形跡も見つけられませんでした。

【農民美術】は「趣味と実益を兼ねた産業の成立を目指して」画家で版画家の山本鼎らが長野上田から各地へ広めました、「農民美術運動」は大正8年から昭和14年頃まで盛んに行なわれ、最盛期には全国で280近くの組合がその土地の風習や名物を作品に仕上げる創作活動をしました。

島の新聞(復刻版)で関連記事を探してみると、大正15年10月号に「島の副業に木工を」という見出しで、島に豊富にある木材や竹で製品を作るように、と奨励しています。奨励しているくらいなので、まだ目立った動きはなかったと思われます。

 昭和3年秋に農民美術講習会準備のために木村五郎が来島しています。昭和4年1月に元村農会主催で第一回農民美術講習会が行なわれました、発足した農民美術組合には18名の村人が登録しています。

昭和3年8月6日付「島の新聞」に【農民美術】というタイトルの記事(全国の活動を紹介)の中で「農民美術品は大体木彫類、家具調度類、竹製品、布製品の四種とし、・・大島なら島の婦人人形で、今度も岡田村から出品された家具調度類は、切手入れ、ヨウジ入れ、煙草入れ、菓子はち、文房具入れ、絵葉書ばさみ、本立、茶托等小物が多い。・・」この記述から昭和3年前後に岡田で婦人人形(あんこ人形のこと)や木工が行なわれていたことが分かります。

昭和4年11月には元村の農民美術活動の影響もあってか、泉津村に「大島郷土美術研究会」が発足、30人近くの村人が参加しています。

追悼文や新聞の記事から推測すると、おそらく島の新聞が「副業の奨励」を掲げた大正末から木村五郎来島までの期間に重丸氏は木工に励んだのではないかと思われます。明らかに木村五郎意匠の人形と重丸氏の人形の型は違います、重丸氏らが独自の型を決めて直彫したのではないでしょうか。その型が定着し、観光客向けに売り出した頃に木村五郎が招聘を受けて現われたのかもしれません。農民美術講習会は昭和4年から5年にかけて3回開催されました、受講者は各回10人くらいだったようです。そのころ重丸氏が島に住んでいたとしたら無関心で居たはずはなく、充分意識していたのではないでしょうか、交流があったとしても不思議はありません。

当資料館では全国の農民美術運動の中で生み出された木工品を調査収集されている埼玉在住の山口畑一氏の木工作品250点あまりを開館時(平成11年)から10年間お借りして展示してきましたが、その中に「シゲ○」というサインが入ったあんこ人形が一体ありましたが、それが重丸氏の作品だとはずっと気がつきませんでした。

平成12年に長野在住の白樺人形を調査収集する方とご縁を得て「藤井重丸氏のあんこ人形」を一体譲っていただきました、やはり人形の台に「シゲ○」というサインがあり、シゲ○=藤井重丸であると特定することができました。

また、シゲ○作の木版絵葉書も2種類確認することができました、当時の版画家とは描く題材も雰囲気も異なり、都会育ちの若い画家の着眼と感性のようなものが伝わってきます、当資料館で「大島を描いた画家の作品」として常設展示しています。

     
 重丸作「あんこ人形」  重丸作「版画集 伊豆の大島」  昭和5年のスタンプ印あり
 

島の新聞が記事に残した「あんこ人形の創始者藤井重丸」に関して私が知り得た事は以上のことだけでした。

私は資料館のHPや自身のブログに二体のあんこ人形の写真を載せて「藤井重丸氏のルーツを辿る手掛かりは見つけられない」と何回か書き込みました。

平成21年大晦日の晩、何の前触れもなく一通のメールが届きました、それが重丸氏の縁者である今田保さんとの音信のはじまりでした。

十数回のメールやりとりで情報交換をおこない概略を共有することができました、そしてついに今田さんは多くの資料を携えて海を渡って来てくださいました、まだ知り合ってから2ヶ月にも満たない今年の2月25日のことです。写真やスケッチ、版画の下絵、あんこ人形、大島から家族に送った手紙など、あんこ人形創始者の記録と80年近く前の大島の風景を知る貴重な資料でもあります。

「シゲ○さん、貴方は画家の勉強をどこされたのですか、何故大島に来たのですか、いつから大島に住み、どんなものを作ったのですか、彫刻家木村五郎を知っていますか」私がずっと聞いてみたかったことです、今田さんから事情をお聞きし、資料を拝見して私が聞きたかったことの大半を知ることが出来ました。

4時間という短い大島滞在中に決まったことは、「6月16日が命日です、七十七回忌を記念した藤井重丸作品と資料展を大島の資料館でしよう」ということだけでした。

大事に保管されていた資料と当時の島の様子から「大島で暮らした重丸氏の足跡」を検証してみたいと思います。

 

島の事情・島のくらし

本土から大島に渡る手段は船頼みです。本格的な大島航路は明治40年、133トンの豆相丸が月3回の航海ではじまりました。大正時代に入ると東海汽船は東京湾沿岸運航から撤退し、大型船を使った伊豆諸島航路の運行に力を入れるようになります。昭和3年までは生きた牛や貨物と人間が同乗する,どちらかといえば貨物優先の船舶が週3日ほど通ってきていました。昭和4年に念願の純客船が毎日運行され、2000トン級の船が東京―大島、伊東―大島−下田を毎日往復するようになりました。

昭和3年には流行歌「波浮の港」がヒット、昭和6年には三原山に蒙古産の駱駝とロバを放ち、旅客を乗せて砂漠を横断するといった企画が人気を呼び、昭和8年女学生の三原山投身自殺を契機として投身自殺流行の奇妙な現象が起こり、一種の大島ブームが現出しました。この年の半年間の自殺者は百人を越しています。このようにして伊豆大島の存在は広く知られるようになりました。

太平洋に浮ぶ小さな島の船旅は天候に左右され、一度上陸すると季節によっては長く逗留することになってしまいます、勿論しっかりした桟橋はまだなく、沖に停泊した本船に小さな艀で送迎するといった輸送なので遊覧には程遠い船の旅でした。

シゲ○さんは大正14年春頃に大島へやってきました、船が岡田村に着いたのでしょう、岡田村を大いに気に入り一度東京に戻って、再度海を渡ってきて岡田村に住み着くようになりました。幼い頃から絵に親しみ東京へ出てから本格的に絵の勉強をしたのでしょう、当時は「大成したければ大島を描け」を合言葉にして、このような悪条件を乗り越えて多くの芸術家たちが大島へやってきました、その理由は何だったのか、大島に何があったのか、シゲ○さんには大島が、岡田村がどう映ったのでしょうか。

島の中の移動はもっぱら徒歩です、村々を結ぶ道も狭く馬力の荷車がやっと通れるくらいの道幅だったと思われます。昭和4年頃から観光が盛んになり急速に交通事情が良くなり、昭和6年にやっと自動車が上陸しています。もうひとつの港が元村港で、岡田から元村まで歩くと2時間以上かかったと思われます。スケッチを見ると最南端の波浮港や三原山まで行った形跡があります、画材を求めて島中を歩いたに違いありません。

短い期間でしたが、船が岡田、元村、野増、波浮港と南下しながら人や物資を運んだ時期があります、シゲ○さんが友人達と波浮港で撮影したと思われる軽装姿の写真から「後に写っている船で来たのでは」と想像ができます。帰りも順に北上して岡田へ戻っています、車が自由に行き来できる道路は岡田から波浮港まではまだ繋がっていなかった頃の話です。

     
 当時の岡田村の版画 重丸作  波浮港で記念撮影  岡田海岸で魚とり(ツキンボ)
 

シゲ○さんは岡田村の集落から少し離れた小学校のそばに村人の好意で草庵を持つことができました。家の所在地図と家屋スケッチ、知人たちと撮った記念写真が残っています。この草庵は昭和7年11月4日の大暴風雨で飛ばされてしまいました。この時の被害は岡田村で全壊47、半壊53軒と記録されています。

住まいを失って一度本土に戻りましたが、しばらくして岡田村に帰ってきて暮らすようになりました。

     
 重丸さんの草庵  草庵のイラスト写真  岡田の漁師スケッチ
 

シゲ○さんから祖母あての手紙

近況をお祖母さんに知らせた手紙が一通残っています、島の暮らしぶりがよく分かります、岡田の地方ことば(方言)が正確に書かれており、移り住んで大分経ってからの手紙でしょう。

 

【 毎日雨が降ったり曇ったりして困ってしまいました。冬もいよいよさようならをするので名残惜しい気がするのせう。精一ぱい駄々をこねて居ます。でももう春は戸口まで来て待って居ますからすぐによくなるでせう。

御申し越しの肖像画はもう出来上りましたが、あと一両日中に東京のおばさんのも出来ますから一緒にお送り致します。自炊を始めてからもうそろそろ一月になります 結末勘定との事で先月は十四日までの七四と座敷代一円五十銭(半月分)道具借料五十銭(半月分)水代二十五銭(半月分)炭代一円十銭(使っただけの半分)醤油一本八十銭合計五十銭(半月分)十一円十五銭を払いました。その外米味噌お菜、魚代などでどうしても十七八円はかかる様です。自炊をやってかへってかかる様なりました尤もおぢいちゃんの十五円は安すぎると思いましたが。

肖像画はこっちへ来てから五枚ほど描きました第一番には東京のおばさんを描いて見事失敗し二番目にちっちゃいおばんちゃんを描いてどうやら描き方を想い出し三番目には奥山さんに描いてあげ四番目が買店のおぢいちゃんで割合に容易すぐ描け最後に又東京のおばあさんをどうやらこうやら描き上げる所ですが大勢で撮った上につかまる所のない様な写真なので私には充分描きこなすには一寸骨でした。この後はこーのおぢいちゃんが描いて欲しいと言いますし魚屋さんも一枚描いて貰いたいと云ってましたからぼつぼつ出来ると思います。

それで今度も亦外からはちっともおあしが入らないばかりか紙や材料も少し買い入れたので足りなくなってしまひ奥山さんに少しばかり借りました。

今月はみんなの学校の方など色々と容易ではないとは思っていますがどうぞ十五円だけ御送りくださいます様お願いください。

奥山さんも愈々大島を出る事になった様です明日は東京へ試験を受けに出帆されます。次の自炊の一日を大略お知らせ致します。

朝は目のさめた時に起きますだから決まってはいない様なもの大抵この頃は七時半頃です。勝ってへでるともうおぢいさんは御飯中です「今日はお天気ですね」「はいいいなぎです」こっちではなぎとかしけとか降り(又は雨さま)とか風の吹く日なら北風(ナライ)とか東風(イナサ)とか南風(ヤマセ)とか西風(ニシ)がお天気の挨拶になります。そこで歯磨の袋とけづり粉の袋と楊子とコップとを持って土間へ下ります。先づ米のなべをブリキ缶で作ったへっついへかけてそれが吹き出すまでに膳ごしらえをしお汁も作ります。汁の身はおぢいさんが山から絶えず持って来るので不足する事がありません大抵大根を入れますきざむのに興味があるからです。左の指で加減をしながらトントントンと扇にでもせんにでも切るのは一種の愉快を感じます。そのかわり自炊を始めてから左か右の指に切りきずの絶える事がありません。火を引いて置いて飯を洗ひ冷水摩擦をしそれから御飯も鍋もお膳もみんなゐろりそばへそなへつけて始めて自分も落付いてゐろりの正面へあぐらをかきます。まだ汁は煮えてません少なくとも三四回は味を見たり食ってみたりするのでせう。それが先達って八ッ頭を煮て居てまだ生にえのやつをどうかと思って食った所が口の中がにがい様なからい様な痛い様な何とも云われない変な気持ちになってこれは大変と応急手当のつもりで仁丹を五六粒のんでおいてあとでおぢいちゃんに話したら「先生それはいごいんですが アハ・・・はしでつついてみますりゃ煮えたげな煮えないげなわかりますぢえアハ・・アハ・・」と大笑ひです。

   
               手紙の中に描かれている挿絵  (2枚とも)
 

まだ私の朝めしのすまないうちにおぢいちゃんは鎌やなたや煙草箱を入れた嚢をしょって山へ出かけます。

食事もすみ牛乳も飲んでしまふと九時頃ですそれから私も道具をもって写生兼運動に出かけます具合のいい時は坂を上ってずうーっと燈台の方まで行って見る事もあるし浜をふらついて帰って来ることもあります。家へ帰るとあの地の厚い風呂敷をひろげてそれから肖像画を描き始めます。すらっと開けっはぱなしなので子守をしているばあさんやあかみさんが縁へ腰を下して見ていることもあります。「え・まあゑはひ(画かき)さんらい、家でごしょうしてんづらと思えばこうして毎日精出して描いてんだぢえ、こんの」そう云って感心してるばあさんもあります。

お昼はいわしのめざしで簡単にすまし午後は亦午前の仕事を繰り返します。時には午前中に家で描いて午後に出かけたり又その反対になったりして一様ではありません。午後五時には愈々大々的炊事に取りかかります。まづ上衣を脱いで(毎日殆ど洋服を着て居ますこの方が何をするにも身軽ですから、それでいい方の綿入れも着ないんで又あはせにでもして頂かないければなりません)お膳のよごれものから鍋の掃除、米をといで、ラムプを掃除して灯をともす、又魚のある日はそのまま浜へとんで行ってあかうを一ぴきかって来て料理をします、すっかりお膳立てがすむとあとの掃除をして雨戸もすっかり閉めてそれから又ゐろりのそばへ落ち付きます。御飯をふかし汁を煮て飯を食ってる時に戸をがたがた開けて御ぢいちゃんが帰ってきます「おぢいちゃんですか?お帰んなさい!」「はい只今帰りました、どっこいしょ」背中の袋には大抵汁の身やもし木が入れて

ありますそれから御ぢいちゃんは反縁に料理をして二合の晩酌をやります「いつでもうまいですな」そういっていかにも美味しさうにちゅうーつと一口のみますそろそろ酒がまわると自分が船のりをしていた頃の話や色んな世間話をきかせます。大抵二三度位づつ丁寧に繰返して聞かされるのでしまひには覚えてしまひます。此の間元村の田村さんと三原舘の娘が師範学校を一緒に受けて成績のよかった田村さんの娘が失敗して下だった三原館の娘は先生の下へせっせと通って美事栄冠をかち得た話などはよほどおぢいさんの気に入りと見えて殆ど十数辺繰返して聞かされました。

後かたづけもすむと八時半頃です、おぢいさんにお休みなさいをして自分の部屋に入りいつかの足しにと思って十時までは勉強をやるか又それが今日の様に手紙を書いたりする時間になったりします。

お湯は向ひの宿屋の風呂かおぢいさんのうちの納屋へたつので大いばりで貰ってはいれます。

此の頃は東京の中学へ行っていた孫が帰って来て毎晩とまりに来るので話し相手も出来てよくなりました。十九で四年生で身長も立派で家の船の仕事などをせっせと手伝っていますが上の学校へ出られずに家を早く継がなければならないので一寸悲観してゐました。

以上大略です、もう習慣になり始めたので たつ子でも見てるなら「そら釜を持って来るぞこんどは顔を洗ふぞ そらゐろりへすはって」など暗記する位でせう。

大変おそくなりました、これでよします さようなら 

二月十日夜   祖母様 皆々様 】

     
 祖母今田キヨの肖像画  キヨのブロンズ  手紙に登場のおじいさん
 

シゲ○さんの仕事・版画・スケッチ

シゲ○さんの資料の中に何枚か絵葉書があります、島の名所の写真に混じって、長い黒髪の女性、仔牛に餌をやる女性、髪を「てぬぐい」で包み頭に薪や水桶を乗せて運ぶ女性の姿などの絵葉書があります。毎日飲む水は村の三箇所にある井戸から婦人達が汲み運んでいました、その姿が南の島の風俗として異国情緒にあふれ、多くの画家たちの画題にもなっています。

シゲ○さんは大島で日々の糧をどうやって得ていたのでしょうか。今も残っている完成した作品は版画絵葉書と「あんこ人形」が数点だけです。大島にシゲ○さんに関する情報は「島の新聞」以外にほとんど有りませんが、島の版画家本多保志氏が「しまの手仕事」としてあんこ人形について聞き取り調査した中にシゲ○さんに関する記述がありました。

岡田の白井潮路さん(岡田で藤井重丸氏を面倒見た一人・郷土史家)が本多氏のインタビューに答えて、「・・大正の終り頃、観光のことを遊覧と言っていた。当時、遊覧土産は月出商店の絵葉書くらいしかなかった。大正14,5年頃、藤井重丸という絵描きが岡田に住んでいた。私が三原山へよく人(お客さん)を案内していたので、登山杖を作った。歌のひとつも書こうと言うことになって、重丸さんに杖に唄を彫らせた、十銭くらいで売っていた。

 それから、何かおもちゃを作ろうと、こけしのような丸い人形を彫ったり、木炭人形を作ったりした。・・・」と語っています。

遊覧客相手に登山杖を作り、版画やあんこ人形を考案して「おみやげ品」にしたのでしょう。岡田では家具調度類も作っていたようですが、実物を見る機会はまだありません。

資料の中に、木の花瓶に生けた花とあんこ人形を並べて撮った写真がありますが、この模様の入った花瓶は彼の手作りではないでしょうか。

       
 重丸蔵書絵葉書   大島の婦人絵葉書  重丸の版画作品  あんこ人形と花びん
 

若きシゲ○さんの風貌

今田さんと知り合えたおかげで貴重な資料を見ることが出来ました、はじめてシゲ○さんのお顔も拝見しました、おカッパ頭に丸メガネは当時としては珍しかったのではないでしょうか、パリで一番有名になった日本人画家の藤田嗣治はこのスタイルがトレードマークでした。一流の画家を目指して先ずは姿から似せてみたのでしょうか、ヒゲがなくてもそっくりです。

藤田嗣治は長くフランスで暮らしていましたが、昭和5年に日本に戻ってきました、昭和12年には大島に来て「大島のあんこ」をスケッチしています。

シゲ○さんは動物好きだったようで写真には犬や猫が写っています、絵にも描いています。

     
 重丸さん  ねこのチビ  三原山で飼育されていたヤギ
 

彫刻家木村五郎との接点

木村五郎は昭和4年から5年にかけて三回「あんこ人形彫刻の農民美術講習会」の講師を勤めています。木村五郎は横山大観や石井鶴三らが活躍していた日本美術院の彫刻部に所属する彫刻家です、大島元村の大橋清史の親戚筋にあたり、面識があったので大橋さんが各地の農民美術講習会に派遣されていた木村五郎を大島に招いたのです。シゲ○さんがこの講習会に係わったという記録は何も残っていません、もしかしたら島にいなかったのか、そう思ってきました。

おカッパ頭のシゲ○さんの写真をはじめて見た時に、ちょっと閃きました。大島講習会の写真が一枚だけ木村五郎のアルバムに残っていました、参加者の名前と写る人物の特定をしようとこれまでに何度も写真を見てきました。大半が坊主頭か七三分けが主流の時代に「おカッパ頭に丸めがねの青年」をユニークな人だな、そう思ってきました。二枚の写真を見比べて私と今田さんは間違いなく「藤井重丸」だと断定しました、やはりシゲ○さんは講習会に係わっていたのです。

 

     
 立位は講師の木村五郎
左奥に重丸さんが写る
 講習会で伝授されたあんこ2体  講習生たちのあんこ人形
(製作年不詳)
 

あんこ人形の姿形

シゲ○さんはどうしてあんこ人形を作ろうと思ったのでしょう、多くの画家たちが競って島娘をモデルにしたように婦人風俗を「南国の情緒」と感じたのでしょうか、その風情を「木彫人形にして表そう」そう思いつき、初めて人形に彫りあげることが出来た、ということは彫刻家・画家の素養を充分に備えていた証拠でもあります。シゲ○さんの版画やスケッチには頭に乗せて水や椿油を運ぶ島の女性の姿を描き留めたものが数多く残っています、島娘(あんこさん)に強く惹かれていたに違いありません。

木村五郎は講習会で村人に彫らせる人形意匠(立ち姿)を決める前にシゲ○さんのあんこ人形を見ていたと思われます。木村五郎はどこの講習会でも型紙を作って彫る方法を伝授しました。おそらくシゲ○さんは型紙を使わずに直彫りで完成させたのではなかったかと思います。

昭和3年から5年にかけて秋田県大湯村で農民美術講習会が2回行なわれ、木村五郎が講師として派遣されました。その時の受講者に勝平得之がいます、17才の頃から身近な風景を水彩画で描きはじめ、昭和3年、24才の得之は独学で色摺版画を学び始めた頃に木村五郎に出会い、木彫り技術の指導を受け、秋田風俗人形を製作して販売するようになりました。昭和5年に全国工芸展に風俗木彫人形が入選し、これを契機に木彫と版画製作に専念するようになりました、得之27才の時です。彼は一ヶ月続いた講習会教室は勿論ですが、旅館まで訪ねて教えを受けています。

       
 初期の得之作品  得之の風俗木彫  重丸人形の写真  重丸の大島風俗版画
 

昭和4年の大島講習会の時はシゲ○26才、木村五郎31才です、どんな会話が交わされたのでしょうか、講習会ではあんこ風俗人形の彫刻技法が島人に伝授されましたが、講習が終るとサンプルから離れて各々好きな人形を彫るようになり独自の人形に発展してゆきます、勝平得之は身近な村人の姿や動物を彫りました。シゲ○さんは木村五郎と出会いどんな作品を生み出したのでしょう、今回の資料展では初期の作品と思われる木彫人形を8点展示することができました、8点も揃うのは奇跡に近いことだと思います。

「よしこれからだ」という時に病を得たのでしょう、昭和7年には大島の家を失います、不運な運命を乗り越えるべく渡ってきた伊豆大島で昭和9年に永眠されました。

私の父は東京から戻ると昭和9年頃から人形を彫り始めました、シゲ○さんと会ったかどうかギリギリのところかもしれません。父は木村五郎が講習会で伝授したサンプル人形や島人が作った人形、型紙などを参考に独自の人形作りをしました。

長年の課題であった「木村五郎とシゲ○さんの接点が大島にあったか」この答えを得られたことは私にとって大変大きな収穫です。

     
 木村五郎の版画  五郎の大島風俗木彫  藤井重治の初期から
晩年までの彩色人形
 

淡き恋ごころ OSETSUBO

創作話のような文章が残っています。

 

「お節ちゃんはおでこだ。鼻はだんごだ。唇は重ったく厚い。髪は赤毛だ。そしてだんまりやで恐ろしく強情っぱりだ。ただ眼だけが遠い所を見つめている様な夢見る様な瞳で一寸いいと彼は思った。だが、その眼さえ片想でもやぶにらみでもやっぱりお節ちゃんを嫌いにはならない。そんな欠点がかえって彼には魅力を持つ様に感じられた。

 

お節ちゃん さよなら する時です許して下さるでしょうね 

1924.4.4 Sより

 

これが彼の少年時代を記念すべき最初にして最後のlove letterだった そして石膏に彼女の姿を刻んだlove彫刻と一緒に彼の女の袂の中へ思い切って入れた。

彼は成功した。次の朝お節ちゃんが窓からそっと自分の写真を彼に与えた。

だが、その日お節ちゃんの一家は遠い遠い所へ引越してしまったのだ。

   
 お節ちゃん  お節ちゃんをモデルにしたと思われる版画集
 

シゲ○さんが描く島娘

シゲ○さんの版画に登場するあんこさん(島娘)はみな若く私には頼りなげに見えます。頭に水桶を乗せて毎日何度となく水を汲み運ぶ仕事は女の力仕事で、たくましい姿が島の女性の筈ですが、シゲ○さんの描く女性は皆か細く見えます。「伊豆の大島版画集」の袋の絵はお節ちゃんではないでしょうか、写真と似ているような気がします。

       
 

ゲ○さんの交友関係

シゲ○さんを描いたスケッチが一枚あります、描いた画家はシゲ○さんより3つ年上の伏石繁男です、東京美術学校日本画科で絵画を学び、後にキンダーブックなどの雑誌の挿絵を描いたりしています。何処でこの画家と知り合ったのでしょうか、東京で絵の勉強をしていた時でしょうか、大島の草庵の前で芸術家風の青年が写っている写真が有りますが、伏石画伯かどうか確証はまだありません。シゲ○さんが挿絵風に描いた「因幡の白ウサギ」の物語のスケッチが数枚残っています。

大島から祖母宛に出した手紙に登場する「田村」は元村農会の田村政吉、お金を貸した「奥山」は大工の奥山庄平ではないでしょうか、いずれも農民美術講習会に関係した人たちです。

伊東出身の石工の石幾組の人たちが岡田に住んで仕事をしていました、シゲ○さんと親しく交流していたようで、結核で苦しんだ最期を親身になって面倒見てくれました。大工にしても石工にしても、木彫や版画に必要な道具類を持ち合わせていた関係から見知ったのではないかと思われます。

岡田には大正12年から3年間「ほとんど村人になって漁師をしたり絵を描いたりして暮らした」と語った不染鉄という画家がいました。不染鉄は海に近い場所に住んでいました、シゲ○さんの草庵とはかなり離れていますが、もし時を同じくして暮らしていたとすれば何か接点があったかもしれません。

     




画伯が描くシゲ○スケッチ  右は伏石画伯でしょうか?  因幡の白ウサギ シゲ○作 
  

一枚の絵葉書

シゲ○さんと交友関係にあった伏石繁男氏の画風データーを見て少し思い当たることがありました。

大島町史資料編の「観光案内 絵はがきに見る大島観光」の中に「大島アンコ」というページがあり、「島の少女」という絵葉書の袋絵が紹介されています。袋の中の絵葉書がどのようなものだったか分かりませんが、こういう「島の少女」シリーズで果たして大島観光みやげの絵葉書になったものでしょうか、この一枚のスケッチをそう思って見てきました。

雑誌「ようちえん」の挿絵の子供は伏石画伯が描いたものです、「島の少女」と画風が似ているように思います。もし、そうだとするとシゲ○さんが画伯にスケッチを頼んで遊覧客土産品として販売した絵葉書ではないでしょうか、袋の中味をぜひとも見たいものです。

       

  

シゲ○さんの絵葉書袋絵

大島で発行された観光絵葉書はモノクロの「あんこ(島娘)風俗姿」や「大島の名所風景」などが大半ですが、袋絵はカラーで凝ったイラスト風のものが結構あります。

観光が盛んになった昭和初期には絵葉書が飛ぶように売れたそうで、最盛期には写真屋が15軒以上もあったといいます、横山写真館が発行した絵葉書の袋絵があります。画家は描いてもサインをほとんどしていませんがあっても読み解くづらくしています、メジロの版画は画家「横井弘三」の作品です。同じ横山写真館からシゲ○さんの「大島風景」が出ているので頼まれて描いたものなのでしょう、あんこ人形でも版画でもシゲ○のサインが入っています。シゲ○さんが住んでいた岡田村塚の本から撮った昭和4年の絵葉書も有ります、この道を行き来していた筈です。

     
 横井弘三版画「大島風俗」 藤井シゲ○版画「大島風景」   シゲ○さんが住んでいた
岡田村観光絵葉書

  

シゲ○さん永眠

 不治の病に倒れたシゲ○さんは会津若松の菩提寺に埋葬されています。当時の大島の埋葬は土葬でした、どうされたのでしょうか。

町史のなかに、例外として「伝染病でなくなった時、国の者でお骨を持ち帰りたい、故郷で葬式をする場合」には村はずれの浜辺に臨時の焼き場を設けて火葬にした、そう書いてありました、各集落にそういう場所があったそうです。

岡田村の場合は野田浜という海岸に今でも「焼き場」という名称の岩場がありますからきっとそこで行なったものだと思います。

今田保さんのお父上が遺骨を引き取りに来島されたそうです。

現在の岡田にシゲ○さんが暮らしたという証しになるものは何もありませんが、最初に村人が力を合わせて建ててくれた草庵、その住まいの裏にあった木々は切られていましたが、向かって右側の木は大きく成長してうっそうとしていました。家があった奥に引っ込んだ空間は80年近く前のままそっくり残っていました。草庵の大きさは写真よりずっと狭く感じました。

はじめて資料を見せていただき、その足で草庵の場所に向かいました、風に揺れる木々の葉音だけが聞こえる静かなこの場所に今田保さんとはじめて立ったあの時「シゲ○さんは確かにここで暮らしていたのだ」そう実感できた瞬間でした。

      
伊豆大島岡田村九番地 草庵のあった場所 真ん中の奥に家があったはずです(6月撮影) 

 

探す人と探し出す人

 大島を描いた画家や文人名・作品名のリストをパソコンで公開しているので、時々作品の照会が来ます、多くの情報を入力してアンテナに察知されやすくしているつもりです。

しかし、検索者がたとえば「藤井重丸」という芸術家が大島にいた、ということを知らなければ私のブログやHPにたどり着いてはくれなかったと思います。熱心な研究者か本人のことを身近に聞いて育ったか、一緒にいたことが有る親族以外では不可能だと思います、それからして今回の出会いは非常にラッキーだったと思います。

資料を探している人がいることを探し出してくれる人が居てこそで、関心を持って探している人が一人だけでは進展しない話なのだと思います。

 「大島を描いた画家」の資料収集では、「何故画家が大島に来たのか、そして大島の何処、何を作品にしたのか、大島に来たことによって作風に何か影響を与えたのだろうか」というようなこと頭に入れて調べてきました。一人の画家だけを調べる事より、多くの画家を対象にすることで「大島の魅力」が浮き彫りになると思ってやっています。

木村五郎生誕百周年だった平成11年に「伊豆大島木村五郎・農民美術資料館」は生まれました、藤井重丸氏七十七回忌の区切りの年にまた縁者の方と貴重な資料に出会えたことは感無量なことです、しかし決して偶然ではないような気がしています、「望めば叶う」そう信じて今日まで過ごしてきました。

私は個々では存在が難しいと思われる 【あんこ人形・農民美術・彫刻家木村五郎・大島の風景・父の仕事】などが協力し合ってひとつになれば何かできるのではないかと思い「資料館と工房」を作りました、開館から11年目になります。

幸いなことに昭和初期に活躍した藤井重丸氏のほぼ全貌を知ることができました、バラバラだった協力し合うべき幾つかのテーマを「あんこ人形創始者のシゲ○さん」が繋ぎ合わせてくれた、そんな資料展になったのではないかと思います。

 

シゲ○さんの木彫・版画・スケッチ

 
 あんこ人形創始者シゲ○の人形 柔らかい材質の木の芯を外して縦に四つ割りにから掘っています
(大きさ最大で11センチ)
  炭俵を運ぶ姿の人形とあんこ彫刻
(大きさ約8センチ)
     
 波浮港  大シマカラ見タフジ  ユバ
     
 船つみ   大島風俗
     
 漁師スケッチ  漁師スケッチ さくらかぶ
     
 大島椿牛あんこ船イラスト  石のそりはし  
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 藤井工房
        所在地 東京都大島町元町2−1−5     
           電話・FAX 04992−2−1628         
    入館無料 休館日は毎週水・木曜日
  
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