歌舞伎義太夫 竹本葵太夫

 伊豆大島生まれ 歌舞伎義太夫竹本葵太夫は柳瀬信吾君・大島ゆかりの文化人です

 

        
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 2017年10月30日 更新

 
朝日新聞10月28日夕刊にポーラ賞受賞の記事が載りました、おめでとうございます。
 本人は舞台が有り欠席、息子の清元瓢太夫と大島から上京されたお母様が出席して優秀賞を受け取った、と聞きました。益々ご活躍を!!

  

  
 2017年9月10日 更新


 東京七島新聞(9月8日号)に伝統文化ポーラ賞の記事が載りました、葵太夫は56才、伝統の世界では中堅どころと言われる世代かと思いますが、間違いなく歌舞伎竹本を背負う逸材だと思います。信吾君を大島から応援しています。
なお贈呈式は10月24日におこなわれるそうです。

  
 
 2017年8月15 更新
 歌舞伎義太夫の竹本葵太夫さんがポーラ伝統文化振興財団「29年度伝統文化ポーラ賞」の「優秀賞」を受賞することになったそうです、10月24日が贈呈式になります。。
伝統文化ポーラ賞は、伝統文化の世界で活躍が期待できる個人や団体を顕彰し、その取り組みを奨励するもの、とあります。






 竹本葵太夫さんは本名を柳瀬信吾君といって伊豆大島生まれで私とは親戚筋になります
歌舞伎の世界とは無縁でしたが、15才大島高校に通いながら竹本講習の授業を聴講、18才の夏に初舞台。今では竹本の中心的な義太夫語りとして活躍しています。

彼がこの世界に興味を持つきっかけとなったのが伊豆大島吉谷神社正月祭に神子さんとして奉納の神子舞をしてから、そういう話を聞いています。女の子の衣装を身に着けて踊ります(10才くらいの時のこと)。

  これからも活躍ください、おめでとう。
 
 2017年2月11更新

 新春は1月26日まで舞台があり、2月は休演だそうです。

 伊豆大島の 吉谷神社の正月祭(東京都の無形文化財指定) は8年ぶりに挙行されました。1月14,15日に奉納踊がおこなわれました。葵太夫は久しぶりに3泊4日の帰省をされました。
彼が歌舞伎義太夫に道に進まれたご縁がここにありました、吉谷神社神子舞について「東京七島新聞2月8日号」に寄稿されているのでここに添付いたします。


 45年くらい前の竹本葵太夫です 神子舞は男の子が神子に扮して舞い踊ります  神社で踊る前に宿で練習を


                                    
 2015年12月更新

 クロワッサンスペシャル特別編集「 古典のたち 」(歌舞伎・文楽・落語・能)伝統芸能の名人が語る・・

   多くの名人の中に堂々と歌舞伎義太夫の「竹本葵太夫」が名を連ねております。

   クロワッサンの表紙と竹本葵太夫の記事を紹介いたします。(2015.11.10発行)

             
  

  
     

  

 


 2013年1月6日更新

 専門的なことはわかりませんが、竹本葵太夫が「特別賞受賞」の記事を見つけたので貼り付けました。

 12月歌舞伎公演国立劇場賞のお知らせ

  12月歌舞伎公演「鬼一法眼三略巻」の受賞者は下記の通り決まりました。

  • ○優秀賞
    中村又五郎
    (奴智恵内実ハ吉岡鬼三太の演技に対して)
  • ○奨励賞
    中村歌昇
    (笠原湛海の演技に対して)
  • ○特別賞
    竹本葵太夫
    鶴澤宏太郎
    (大蔵館奥殿の場の竹本の演奏に対して)

  伊豆大島出身の柳瀬信吾は幼少の頃から芸能に興味をもち、高校生の時に郷土芸能部で当時民謡の世界で活躍していた大島里喜が創設した「御神火太鼓」の指導を受けた。
  今は歌舞伎義太夫の中堅として舞台で活躍中の葵太夫の大島の話、義太夫の経歴や芸への想いなど、大島に縁のあるお話しをご本人の了解をいただきましてブログから転記して紹介いたします。
   
 現職  歌舞伎義太夫太夫(松竹株式会社専属契約芸能家)/社団法人伝統歌舞伎保存会会員/歌舞伎音楽専従者協議会理事/竹本協会理事/独立行政法人日本芸術文化振興会伝統芸能伝承者養成研修講師


    トピックス 読売新聞 2012.8.27日掲載記事にリンク  

 歌舞伎音楽の竹本葵太夫…俳優と同じ緊張保つ


    トピックス  葵太夫親子共演が実現

 2009年11月1日から25日まで新橋演舞場の「三人吉三巴白浪」に出演しました。
この演目では浄瑠璃の掛け合いがあって、清元の太夫修業中の葵太夫の息子さんとの共演が実現。
「清元瓢(ひさご)太夫」の芸名を頂戴し、24日初舞台、25日千秋楽の二日間無事に共演を果たしました。
益々ご活躍下さい。
              
    
                     竹本葵太夫         清元瓢太夫
                            2009年11月24日
       
       大島で講演会 2006年8月4日  「歌舞伎と大島」
       大島で演奏会 2006年8月8日 『絵本太功記:尼ヶ崎の段(後半)』素浄瑠璃   
    
  つねひごろの記事は歌舞伎義太夫 竹本葵太夫(ホームページ)から転記して掲載。
     



   2005年8月
講演『竹本葵太夫芝居話』(8/7)

 「故郷へ錦を飾る」ということを申しますが、はたして「錦」か「つづれ」か分かりませんが、8月4日に出身地の伊豆大島元町で「講演」をいたしました。

 「伊豆大島文化協会」という団体がございまして、このサイトの『椿説弓張月:大島』のときにおなじみの藤井伸先生が会長を務めておいでです。先生は、「演奏は無理でも、いつか君に大島で講演をしてもらいたい…」と年来のご希望で、このたび私の帰省に合わせて、次のような企画を実現してくださいました。

伊豆大島文化協会
夏の講演会と展示会
第1部
竹本葵太夫芝居話
『歌舞伎と大島』
8月4日 19:00より 大島町開発総合センター大会議室にて
19:00- 挨拶・講演者紹介・里喜本社中民謡踊り
19:30- 講演『歌舞伎と大島』

第2部
没後20周年記念
「大島里喜」想いで展
8月6日から8日
 大島町開発総合センター大会議室にて

主催:伊豆大島文化協会
共催:大島里喜顕彰会
後援:大島町教育委員会
入場無料

 この「大島里喜」というお方は、民謡歌手として『大島節』・『あんこ節』などを全国に広めた方で、ご年配の民謡ファンには懐かしいお名前ではないでしょうか。御神火太鼓の創立者で、私を「しんちゃん、しんちゃん」とかわいがってくださり、この世界へ進むことを応援してくださいました恩師であります。没後20年を記念しての展示は、交遊の広さ・支持者の立派さを物語る遺品で場内が埋められていました。

 さて私は、『歌舞伎と大島』と題しまして小一時間お話をいたしましたのですが、実のところこの催しが決まりましてから頭を抱えておりました。7月の巡業中もそのことを考えますと頭の中が整理できず、不安で一杯になりました。何をお話ししたらご来場の皆様によろこばれるか…。歌舞伎愛好者の集いでしたらいくらでも話題はございますが、まず歌舞伎に縁の薄い土地柄で、「あそこの次男坊は歌舞伎に入ったらしいが、どんなことをやっているのだろう…」というご興味でお見えになる方が多いと思われます。そこで「歌舞伎入門」をお話ししても、「百聞は一見にしかず」で、ピンとこないでしょうから、あまり楽しんでいただけない…。これはいっそ、近所のおじさんやおばさんに雑談するように、お話しした方がいいなと腹を決めました。

 「私が大島から歌舞伎の世界に飛び込むまで」、「歌舞伎やほかの伝統芸能の中で再会した大島の方言や民謡の歌詞などのご紹介」、「大島方言を含む義太夫の一部分を素語りして解説」…このように柱を立てました。私はふだんの会話でも頭の整理の悪い男で、話があっちこっちになる癖がございます。そこで「ワード」の「アウトライン機能」を使いまして話の要旨をまとめておきました。実際話す段になりましたら、もちろんその通りにはなりませんでしたが…。文末にその原稿を掲載してみます。「こんなことをお話ししてみよう…」と思っていたことでございます。

 会場は大島町役場、
大島町開発総合センター大会議室で、まあ80名くらいのお客様がいらっしゃればいいだろう…という予想でございました。ところが物珍しさからでしょうか、町役場の方のお話では、なんと160名ものご来場を賜り、パイプ椅子を追加して座りきれない方はお立ちになり、それでも会場からはみだしてしまう皆様は、隣の部屋でモニターだけお聞きいただくというご不自由をおかけしてしまい、申し訳ないことでございました。しかしながら、主催者側からいたしますと、「うれしい悲鳴」であります。年齢層はやはり私どもより上の方が多く、90歳を過ぎたご婦人もおいででした。

 お話の中では、18歳で上京し26年。まさか今の私が大島の方言、しかもかなり古い年代の方言をしゃべるなどとは皆様お思いにならなかったらしく、これが実に受けました。尾籠なお話で恐縮ですが、ただいまは「おならをする」とだいたい皆様おっしゃるのではないかと思います。しかし、私の祖父などは「屁をひる」と申しました。私はこれは大島の方言だとばかり思っておりましたが、6三遊亭圓生師の落語で「屁をひる」と聞き、「ああ、これは江戸の古い言いまわしなのだ…」と得心した次第でした。このように大島には江戸の古い言いまわしが多数遺されています。あまり上等なのはございませんが…。このお話が受けまして、会場がほぐれてきました。最後の実演は『絵本太功記:尼ヶ崎閑居』の光秀が誤って母を槍で突いた驚き、「ヤ、ヤヤヤヤヤヤヤヤ、こは母人か、しなしたり」の「ヤヤヤヤヤヤヤヤ」という驚きが大島の日常会話にございますので、このくだりを解説しながら申し上げました。皆様、よくお付き合いくださいまして、持ち時間をなんとか終えることができました。

 翌日、実家には近所の皆様からお電話を頂戴したり、立ち寄ってご感想をいただいたりでありがたいことでございました。なかでも町中で唯一アンコさんのかぶり物をしておいでという、90歳を過ぎたおばさまが、もうお耳が遠いので有名な方なのですが、「私にもよく解るように説明してくれて涙が出てきた」と母に電話をしてきてくださったことが、とてもうれしく思いました。大島を出ましてから郷土に恩返しもしておりませんが、こうした催しをよろこんでいただけるのなら、何かまたお手伝いさせていただきたいとしみじみ思いました。

 翌日は、文化協会の皆様から慰労の席を設けていただきまして、「葵太夫のファンの会を立ち上げようではないか」などと畏れ多いこともおっしゃっていただきました。

 私思いますに、大島という土地は、島だけについつい皆が閉じこもりがちで、進取の気風があまりございません。また、何かを立ち上げましても、継続していくねばり強さにも欠けるところがございます。しかしながら、藤井先生始め幾人かの皆様は、損得抜きに大島を活性化させようと心を砕いておいでです。また、それを島外から大島に移住してきた皆様が積極的にお手伝いくださる光景も目にいたしまして、こうした皆様の啓蒙を受け、もっともっと楽しく大島での暮らしを充実できるよう、島民の皆様が活発になっていただけたらなと、生意気なことを申しますが感じた次第です。

 来たる2006年は6つの集落が集まり、「大島町」が発足しまして50周年の年だそうで、町役場にも「50年後の愛しき人に 島魂継承」、と幟が掛けられています。「私なりに」郷土大島にできることをこれから折に触れて考えてみたいと思いました。「錦」が飾れたかどうかは分かりませんが、親や親戚・支援してくださる皆様には、いささかのご恩返しができたかなという講演会でございました。

★私の親戚がHPでこの講演会をご紹介くださいました。どうぞご覧くださいませ。

伊豆大島木村五郎・農民美術資料館の日記


『歌舞伎と大島』講演草稿

はじめに

 ご紹介いただきました竹本葵太夫こと柳瀬信吾でございます。

 私は元町の観光休憩所の次男に生まれまして、元町保育園・元町小学校・一中・大島高校とお世話になり、高校卒業後、「歌舞伎義太夫」という仕事に就きました。歌舞伎の舞台でそのお芝居の進行に合わせて状況を語る、ナレーターのようなことをやっております。

 小学四年生と中学二年生のときに南組から神子舞に出していただきまして、高校では御神火太鼓のお仲間に入れていただきました。藤井伸先生には公私ともにお世話になっておりまして、「大島からこういうことをやっている人間が出ている」ということを皆様方に紹介したいというご希望から、今夕の催しとなりました。

 今日は『歌舞伎と大島』というタイトルでお話をする予定ですが、子供のころお世話になった懐かしいおじさん・おばさん、皆様のお顔をこうして拝見しておりますと、通り一遍の「歌舞伎入門」などのお話はどうもそぐわない。少しだけ私のやっております歌舞伎義太夫のことをご説明して、私が「この大島で生まれ育ち、どうしてこの道に入ったのか」その突然変異のあらまし、「歌舞伎の世界に入って再び出会った大島」、そして少しばかりの実演をお聞き願う、このように考えております。どうぞよろしくお付き合い願います。

いかにして歌舞伎界に入ったのか

 私の実家は芸事にあまり関係のない家でございました。私は子供のころから時代劇が好きで、兄がピストルなら私は刀という具合でした。プラモデルも鎧兜やお城などを好んで作っておりました。小学校のころ、ただいまはどうなっていますか、「為朝まつり」というイベントが始まり、源の為朝公がとてもかっこいいな…と思いました。画用紙を買ってきては鎧武者の絵などをよく描いておりました。

 四年生のころ、元町大火後はじめての吉谷神社の祭礼がありまして、南組から神子舞の神子に選ばれました。今思いますと、やはり好きだったのですね。まだ小学校に上がる前、ゆかたを着せて提灯を持たせるとご機嫌で「北海盆唄」なんか勝手な振りで踊っていたそうですから。

 祭の世界は周囲がみんな「おじさんたち」の世界でした。神子は「おみこーさん」と古い方は呼んでおいでで、たいせつにしていただきました。人の前で何かやるという快感を味わって、これが歌舞伎の世界に入る引き金となったのかもしれません。ご承知の通り、神子舞は天の岩戸におこもりになった天照大神の気をひくために、アマノウズメノミコトが舞を舞ったのが我が国の芸能の元祖といわれ、その神子に選んでいただきましたのですから、やはり芸能界とご縁があったのかなと思います。

 私は子供心に神子宿での「おじさんたち」の世界にあこがれました。神子舞のお稽古がすみますと、おじさんたちが楽しいお話をして、まあ島でいうところの「バハをして」、それを聞くのが楽しい…。逆に同世代のやっていることはあまり興味がなく、はやくおとなになっておじさんたちの話に入りたいなと思いました。この「年長の方のおっしゃること、なさることに目がいく」というのは歌舞伎界に入っても同様でして、これがとても役立ちました。そういう姿勢が通じるのでしょう、師匠方から気に入られ、抜擢もしていただき、お稽古も懇切にしていただきました。「人の話に興味がある」ということはたいせつだと思います。私は「昔はこうだった」というような若手が苦手なお話がとても好きでしたので、これは得をしました。明治大正生まれの師匠方からいろいろ教えていただけましたのは、ただいまの宝です。

 歌舞伎に興味を持ちましたのはテレビの中継で、父が訪問販売から英語の学習セットを子供に買い与えた中にカセットテープレコーダーがありました。これでテレビやラジオの番組を録音しては真似しておりました。変な子供ですね…。中学高校と大島から休みを利用して東京まで歌舞伎や文楽を見に行きましたが、当時まだ観光華やかなりしころで、家にも余裕があったのですね。今思えば…。この仕事を志しまして、父母に相談しますと、したいようにさせてくれましたのでありがたく思っております。母方の祖母などは「国の大学を出て帰ってきて支庁に勤める」のが理想のようだったのですが…。

15歳の8月5日、明日ですね。あるご縁で竹本越道師匠という女流義太夫の師匠に義太夫を手ほどきしていただきましたのが、お稽古の初めです。先ごろこぶ平から襲名して林家正蔵になった皆様ご存じの噺家さんも、同じ越道師匠に落語家の素養としてお稽古にいらしたそうで、楽屋の廊下で行き会いましたときに、あちらから挨拶されました。こうして学校の長期の休みを利用してお稽古に伺っておりました。いよいよ卒業いたしまして、この世界に入りましたが、ずいぶん珍しがられました。「18歳だってさ」「大島なんだって」…これはよく言われました。ですから私はこれでも「伊豆大島出身」と紹介されるたびに大島の宣伝をしております。それはさておき、そんなわけでこの仕事に飛び込み、初舞台を勤めてから26年であります。

大島里喜師の思い出

 あさってから記念の展示がここでございます大島里喜師匠とは神子舞のときにお化粧をお願いしたのがはじまりです。このときはパンケーキで塗られるのが、なんだか気持ち悪かった思い出があります。

大島の芸能を盛んにしたいという希望に燃えていらして、私の歌舞伎界入りにとても期待していただきました。「歌舞伎座の桟敷に大島のアンコさんを座らせて信ちゃんの舞台を見に行くからな」とよく言っていただきました。帰省しますと先祖の墓地へお参りしますが、かならずおばさんのところもお参りいたします。御神火太鼓も皆がお世話になりましたが、「生徒さんは品行方正で」ということをよくおっしゃっていました。

 亡くなるまで意欲的で、歌舞伎の坂東八重之助さんに「殺陣の踊りを拵えてもらいたいが頼んでもらえないか」と言われたこともあります。

歌舞伎義太夫という仕事

 「百聞は一見にしかず」と申しますが、私の仕事はどうも上手に説明できません。ぜひ劇場でご覧ください。テレビでもときどき中継がありますが…。

邦楽と呼ばれる中に「語り物」と「唄い物」があり、義太夫はその「語り物」の代表格です。元禄頃に竹本義太夫が、それまであった語り物に新風を吹き込み、人形芝居として大流行。著作権などない時代ですから歌舞伎も人形芝居の演目を輸入。その上演には義太夫節という音楽の演奏者が必要ですから、歌舞伎用の義太夫が生まれました。文楽は大夫のやりたいようにやって人形がついてきます。歌舞伎は俳優が主なので、俳優さんのやりたいように語る。俳優に合わせて義太夫を語るという特殊な仕事をやっております。

 「相手の気持ちをくみ取って語る」という訓練のために、楽屋での雑用はたいせつな修業です。先輩の着替えの手伝い・お茶を出す…適切なタイミングが要求されます。祖父は私が家の休憩所の配膳などを手伝いますと、適切な「実地教育」をしてくれました。後年楽屋勤めに役立ちました。

 「大島からこの世界に入って困ったこと」をちょっと申し上げますと、「大島の会話はきつく聞こえる」ということです。別段相手に敵意などないのですが、ちょっとぶっきらぼうに聞こえる。「今日は結構なお天気ですね」が「イェーイ!よい天気だな!」。そんなことがふだんの話の調子にもあらわれて、そんなつもりはなくても相手にきつく聞こえることがあるようです。

『歌舞伎と大島』

 歌舞伎の演目の中に大島が登場する代表作は、『椿説弓張月』です。さきおととし、平成14年12月に歌舞伎座で上演され、私は「大嶋の場」を勤めました。大島からも大勢の皆様が見に来てくださり、その節はありがとうございました。『椿説弓張月』は文豪三島由紀夫先生が曲亭馬琴の原作を歌舞伎劇化したものです。ほかに大島が登場するのは、『凧の為朝』というお芝居。これはあまり上演されません。

 大島では昔、素人芝居がお祭か何かの折にあったそうですが、その指導に波浮へ行ったことがあるという俳優さんに歌舞伎に入ってから逢いました。横浜辺りから俳優さんが来ていたようです。

 歌舞伎の世界にいて大島を思い出すことがときどきあります。

 歌舞伎の中の黒御簾音楽で使われている曲が、吉谷神社のお祭で唄われるものと歌詞が似ていたり、俳優さんのセリフの中に、現代語にはなく、大島で使われている方言と一緒の言葉が入っている…そんなとき、「大島と江戸はつながっているのだな」と思います。ただいま申しました黒御簾音楽というのは、長唄の唄唄い・三味線弾き・鳴物を演奏する皆さんが担当します。私ども竹本は舞台右手。黒御簾は舞台左手で演奏します。黒御簾では、幕開き・人物の登場などにその場にふさわしい曲が選曲されます。たとえば浜辺ですと「沖の大船」。田舎では「めでたきものは」など。これは歌詞が皆様おなじみの島の民謡と一緒です。ほかにも端唄や俗曲など、いろいろと歌舞伎以外の芸能にあたってみると、大島の民謡の源流にであったりします。吉谷神社の祭礼唄には明治大正に流行った端唄・俗曲が多く感じられます。

 セリフにもおもしろい言葉が登場します。大坂でできた義太夫の中に「ぐりはま」という言葉が出てきます。ご年配の方しかお使いにならないかもしれませんが、大島でいうところの「ぐれはま」です。とんでもない状況になっていることを「ヤアーレナー、ぐれはまだじぇーよー」というあの「ぐれはま」。広辞苑に「ぐりはま」として載っていますが、「物事がくいちがうこと。あてがはずれること。」と出ています。「いやぁー、することなすこと皆ぐりはま…」というようにセリフの中に使われます。

義太夫の実演

 義太夫の実演を所望されましたのですが、基本的に三味線と組んでやるものなので、今日はお聴かせすることができません。しかし、せっかくの機会なので、三味線なしの語りだけでもお聞かせしたいと思います。それも大島特有の言い方が、昔の義太夫に残っている例をお聞きいただきます。

 『絵本太功記:尼ヶ崎』の一節。明智光秀が主君の織田信長を本能寺に討ち取り、豊臣秀吉と合戦に及びます。秀吉が大胆にも光秀の母の家に忍び込んできたのを光秀は障子越しに槍で突きます。たしかに手ごたえがあったので引きずり出してみると、秀吉ではなく母親でした。母親は主君を殺した倅光秀を諫めるために、秀吉の身代わりとなったのです。この部分をやってみますが、ここに大島と同じ表現が出てきます。何かと申しますと、大島で話をしていますと、会話の合いの手に驚いたようすで「アヤ、なんだよ」とか「ヤーレ」とか「ヤヤヤヤ」と使われます。このうち、もっとも驚きの強い、「ヤヤヤヤヤ…」はあまりよその土地で使っているのを聞いたことがありません。しかし、江戸時代に大坂でできた義太夫の曲に、とても驚いた場面で使われていますからお聞きになってみてください。

~\差し足、抜き足、うかがい寄り。聞こゆる物音、心得たりと、突っ込む手練の槍先に、わっとたまぎる女の泣き声。合点ゆかじと引き出す手負い。真柴にあらで真実の母のさつきが七転八倒。ヤ、ヤヤヤヤヤヤヤ、こは母人か、しなしたり。残念至極とばかりにてさすがの武智も仰天し、ただ呆然たるばかりなり」

(このあと、語り方で注意している点を申し上げる)

むすび

 どうも「台本に書いてあることを工夫して語る」ということは修業しておりますからまだよろしいのですが、こうしてお話し申し上げるのは得手ではございませんで、お聞き取りづらかったこととお詫び申し上げます。

 私はホームページを作っておりまして、歌舞伎義太夫のこと、おりおりの随想を気の向くままに書き散らしておりますが、ご興味がおありでしたら、のぞいてみてください。インターネットの検索で「葵太夫」と入れていただきますとヒットいたします。

 私どもの世界では、「四十五十は洟垂れ小僧」と昔からいわれておりまして、まだまだ私などは「下手のお仲間に入れていただいた」ところです。これからも好きでやらせていただいている歌舞伎義太夫に精進しまして、少しでも歌舞伎をご見物の皆様によろこんでいただくことができればと思っております。どうぞこれをご縁に、歌舞伎へお出かけくださいませ。

 また、「歌舞伎に縁の薄い土地」であっても、「歌舞伎の家柄」でなくても、何らかの出逢いで職業としたことが「好き」になり、「仕事に惚れる」と申しますか、愛情をもてますと、なんとかなってしまうものだな…とこのごろ思います。海に囲まれていようが、刺激がなかろうが、「自ら求めていく」という気持ち、これがたいせつで、そういう気持ちの方が多くなりましたら、日々の暮らしはまた楽しいのではなかろうかと思います。

 これで私のお話を終わります。本日はありがとうございました。




2006年8月
故郷で義太夫の会(8/19)(8/31写真追加)

 昨2005年8月に私の生まれ故郷、東京都大島町(伊豆大島)で、『歌舞伎と大島』という演題で講演をいたしましたことは、このサイトに書きました。その後、「話だけでなく実演を聴きたい」というご要望を頂戴しまして、この8月8日に『歌舞伎と大島U』といたしまして、『絵本太功記:尼ヶ崎の段(後半)』を大島町開発総合センターで素浄瑠璃にて演奏いたしました。

 私が20歳の成人式に帰省しましたとき、親戚や近所の皆様との宴会がございました。祖父の弟にあたる大叔父が「信吾、義太夫というのはどういうことをするのだ?ひとつここで唸ってみろ」とおっしゃいまして、「イエ…、あの三味線弾きさんがいませんとできないんです」とおろおろ答えたことがございました。「大島から義太夫の道を志した若者が出た」と申しましても、さて「義太夫とは?」という感じで、私が歌舞伎の女形になったと誤解していた同級生も多数でした。別段、「義太夫とはこういう芸です」と故郷で「啓蒙」してもどうということはございませんが、昨年の講演会では会場に入りきらないほどの皆様にご来場いただき、「しんちゃん歌舞伎に行ったっていうけどなにやってんの?」と実演のご所望があったということは、芸人冥利に尽きます。伊豆大島文化協会会長の藤井伸先生もお奨めくださいましたので、よく舞台をご一緒している鶴澤慎治氏に「ご家族を連れて海水浴をしがてらいかがですか?」と、この企画をもちかけましたところ、賛同していただき実現の運びとなりました。

 演題は「義太夫節の代表的演目であること」・「せいぜい30分くらいに納まること」・「理解していただきやすいこと」・「葵太夫・慎治でできる曲であること」を前提に選曲いたしました。慎治氏とは以前『奈佐原文楽』という郷土芸能の人形芝居から依頼を受け、「尼ヶ崎」を一段素浄瑠璃で録音したことがございますので、その後半をやることにいたしました。~\月もる片びさし…」から始め、普通まず省略しない「皐月の述懐」と「操のクドキ」をざっくり割愛いたしまして、光秀の~\…さすがの武智も仰天し、ただ呆然たるばかりなり」から~\おりしも聞こゆる陣太鼓…」の十次郎の出へ飛び、段切まで続けました。これでちょうど30分。

 私は前日の7日に大島へまいりました。機中、雲を眼下に見ながら、それまで勤めておりました『奥州安達原:袖萩祭文』の段切、~\故郷へ帰る袖袂、雁のつばさの雲の上…」という一節を思い出しておりました。「明日は慎治氏ご一家もこうしていらっしゃるのだな、一緒に袖萩祭文を勤めていた慎治氏もこの部分を思い出されるかな…」などと思っておりました。しかし、その晩から台風8号の接近で、猛烈な雷雨、たいへんなお天気となりました。当日の8日は飛行機全便欠航。船も出帆を見合わせているとのこと…。慎治氏はご家族と来島の予定が、台風に遭いにいくような状態なので、ご家族の来島を中止され、ご本人は飛行機から高速艇に乗り換え、嵐の中を来てくださいました。なんと申しましても出演者が揃わないことには話になりませんのでひと安心。慎治氏のご家族はとても来島を期待してくださったそうで、天候の具合とはいえ申し訳ないことでございました。

 さて次はお客様であります。入場無料ですが、なじみのない義太夫をお聴き願う会に、この台風の中をどれだけのお客様が来てくださるだろうか、主催者も私どもも心配でした。私の実家や藤井先生のお宅に、「今夜ほんとうにやるんですか?」と問い合わせが続きましたので、町役場からの放送で開催を通知していただきました。会場は300席のパイプ椅子。それがこの台風のさなかに、なんと260席も埋まったというのですから、ありがたいことでございました。皆様長靴履きであります。開演前にそのようすをかいま見まして、胸が熱くなりました。

 19時30分、藤井先生からのご紹介のあと、演奏の前に三味線を中心とした解説をいたしました。伊豆大島の民謡『大島節』を例にとって、通常の間合い・急速調・憂いのBGMといろいろな弾き方でお聞き願いました。同じ旋律でも義太夫の三味線の表現力によって、まったく異なる世界を現出できるところをご鑑賞いただき、「尼ヶ崎」の中から、打楽器的用法の光秀の『大ノリ』、三味線の急速調に乗せて太夫が読むように語る部分などを抜き出して解説いたしました。たった3本の糸から重厚・華麗・哀愁…などいろいろな音色が出ることにご興味をお持ちいただけたようです。

嵐の中おおぜいご来場いただきました 素浄瑠璃「尼ヶ崎の段」

 10分ほど支度のお時間を頂戴し、いよいよ「尼ヶ崎の段」の演奏。会場の開発総合センターは舞台の高さがあまりなく、パイプ椅子に腰掛けた状態では私どもの姿も見えませんし、第一音が通りにくい。そこで仮設の山台をご用意願いました。おかげでなかなか立派な舞台面となりました。~\月もる片びさし…」から~\写す絵本の太功記と末の世までも残しける」まで30分。しつけない『コトバ』も語りまして、汗みずく…。ご覧になった方が「しんちゃん途中でどうにかなってしまうのではないかと思った」とか「あとで『セリフの部分はふだんやりません』と聞いて安心した。これを毎日やっていたらたいへんだ」などと感想を頂戴しましたが、本家文楽ではこの2倍から3倍の時間、大夫三味線が語り・弾き続けるのですからそれをご覧になったら皆様卒倒なさるのではないでしょうか。

 演奏のあと花束を頂戴し、質疑応答があり、21時終演。急ぎ出口に廻り、ご来場の皆様にご挨拶申し上げました。皆様よろこんでくださったようで、よかったと思いました。通常こうした催しでは開演前前方の座席が空いていて、中間くらいから詰まってくるのだそうですが、この会では前方からぎっちり詰まっていったので、「これを見たい」という気持ちの強さが感じられたともうかがいました。

 翌日は昨日の嵐はどこへ行った…というような上天気。まったく一日ずれてくれたらと思いますが、考えてみまするとあの悪天候の中、わざわざ来てくださった皆様は、ほんとうに「聴いてみたい」・「聴いてやろう」というお気持ちがある方ばかりなわけで、返す返すもありがたいことであります。また、このサイトをご覧になって、わざわざ泊まりがけで東京から来てくださった方もおいでだったそうで、このことも私感動いたしました。

 もう故人となりましたが、「ひとつ唸ってみせろ」といった大叔父、「しんちゃん、しんちゃん」と私をかわいがってくださった町の皆様へ、「ただいまはこういうことをやっております」と故郷でご報告ができ、なにかひと区切り付いたような心持ちでありました。企画を進めてくださった藤井先生、文化協会の皆様、またこころよくご協力くださった慎治氏に深く感謝申し上げる次第です。
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私の親戚『藤井工房』のブログもご覧くださいませ。
(8/31追記) おかげをもちまして盛況のうちに幕となりました大島文化協会公演の『歌舞伎と大島U』でありますが、その後いろいろとご感想をお寄せいただいたり、当日の写真を送っていただいたりいたしました。私のいとこ高梨悦也氏が撮影してくれた写真を何葉かお目にかけます。

はじめに解説をいたしました。 いよいよ「尼ヶ崎」のはじまり。
~\ここに刈り取る真柴垣…」 「ヤ!ヤヤヤヤヤヤヤヤ…こは母人か!」
ようやく向こう岸へ着きました…。 演奏を終えてご挨拶。
ホッとしました…。
 

   大島で開催された柳瀬信吾(葵太夫)君の会に関する記事をHP管理人がブログで紹介して
   いますのでご覧ください。
      
 2005年   竹本葵太夫講演会大盛況(写真)
 講演会    演ずる姿 
         竹本葵太夫を囲む会(写真)
         大島里喜想い出展(写真)   
         大島里喜の顕彰(写真)
         里喜と葵太夫は島の宝(二人の写真
 2006年   竹本葵太夫の大島講演(ポスター)
 素浄瑠璃  義太夫講演会
          竹本葵太夫の熱演 
         文化協会のお礼状 
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                         藤井工房
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