大島を描いた画家の資料展@(第1回から3回) 

    第3回 大島を描いた原画作品と観光絵葉書
    第2回 忘れられた日本画家不染 
    第1回 島で出会った
中村彝保田龍門 
           
画家や文人の来島 それは大島の宝です
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画家の伊豆大島足跡
資料紹介
  
       
        
              大島を描いた画家の資料展
 
 木村五郎研究会は大島を訪れた画家130人の作品図録350点を資料収集し、明治の後期から個性あふれる画家や無名の画学生などが来島したことを知りました。彼らは小さな船に揺られて大島に何故来たのか、その大島に何があったのか、大島で画家は何を描いたのか、大島が画家に何を与えたのでしょうか。多くの画家の作品と足跡を見比べることで幾つかの疑問が解決できるのではないでしょうか。


れから何回資料展ができるのかわかりませんが、画家たちを迎えた島人の目線で「画家と大島」の繋がりを分析してみたいと思います。【木村五郎研究会】


       
       大島を描いた画家作品・資料展
第3回)

 

大島を描いた原画作品と観光絵葉書

日時 24年9月17日―10月14日 10時から18時まで

        会場 大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房) рO4992−2−1628

 
       カラスは細木原青起 牛は服部亮英  あんこ姿は前川千帆の筆
 
 展示作品(作家名と作品名【原画】をカラーで表示
) 
 ・伊東深水「 大島十二景より 春の海・黎明・雨後・風の夕 」 
                           (昭和11年から12年)

大正2年頃(18才)から昭和14年まで大島に通って絵を描いた  昭和12年には「郷土会」の写生旅行で来島、日本橋白木屋で開催された「島巡遊絵画展覧会」に川瀬巴水「べんてん堂」・笠松紫浪「燈台」「御神火」・横尾芳月「島の朝」「島の夕」・山川秀峰「紅椿」「乙女」・千島華洋「大島浅香」・武藤嘉門「椿道」・山田喜作「秋の海」・門井掬水「椿の島」・伊東深水は「早春の朝」を出品、岩田専太郎や志村立美も同行小早川清は竹芝で見送る

 ・川瀬巴水「波浮之港」昭和12年  
   郷土会のメンバー、日記に大島旅行のことを書いている
 ・志村立美「大島のアンコ」スケッチ(昭和12年) 
   
郷土会のメンバー 美人画・挿絵で活躍
 ・久里四郎「森口ツネの肖像」明治36年                
   志賀直哉と同級、里見とん・谷崎潤一郎らと交流 美術学校生の頃に来島、「画家の平井武   雄と久里四郎が泉津で絵を描いている」という文章を読んだことがある
 ・池島清(慶春)「初夏」昭和7年頃  
   元町「柳川館」に長逗留して島の日常風景を描く       
   昭和6年10月「伊豆七島・大島風景」個展 
   昭和9年4月「伊豆七島油絵小品展」を下田範次と開く       
   昭和11年6月、新制作派協会を設立することになる面々(
猪熊弦一郎・脇田和・中西利雄   ・内田巌・栢森義・佐藤啓・三田康・笹鹿彪を池島と下田が案内して来島 
   各島を行脚して「島の洋画展覧会」を伊勢丹で開催
 ・下田範次「島の春」昭和9年頃「伊豆七島油絵小品展」出品作と思われる
 ・笹鹿彪「大島元村」昭和4年
 ・漫画家ご一行 前川千帆・池部鈞・池田永一治・水島爾保布・細木原青起・服部亮英「大島記  念」昭和5年 「大島漫画行」
 ・鶴田吾郎「サシキジ」昭和15年   
   あんこと牛」大正5年 「大島の海」「差木地」「伊豆大島の女」「大島の娘」などの素描   が都内の美術館にある
 ・中村善策「椿のトンネル」昭和11年 美術雑誌に「大島の宿」寄稿 大島の道」昭和12年     中村善策・硲伊之助・田崎広助・松本弘二らが描いた「大島画帖」 」
   松本弘二」「大島元村にて」昭和28年 「大島三原山」(大島町に寄贈・開発センター2   階に展示中)
 ・前田政雄「大島のアンコ」昭和12年
 ・永田米太郎「大島の風景・風俗木版画」                            大島観光ホテル勤務、島の風習に興味を持ち岡田の白井潮路氏に学ぶ、版画で大島の風景    風習をまとめ、版画を挿絵にした「大島」を執筆
 ・清水柳太「大島風俗」「アンコと御神火の三原山」絵巻 昭和8年頃 これまでに5本の絵巻    を確認、経歴は不詳 昭和12年紀行記「椿咲く大島の村々」執筆 
 ・中出那智子「伊豆大島風景」大島生まれの洋画家
 ・高田鉄蔵 油絵「岩と波」 写真・木版画・仏像彫刻と多彩
 
 絵葉書
 ・奥山儀八郎「大島風景版画」   ・石川美峰「伊豆大嶋はんがアンコ三姿」
 ・石井了介「大島版画絵葉書」昭和12年   ・藤井重丸「大島風景」
 ・小早川清「大島あんこ絵葉書」 
 ・石井柏亭・矢澤弦月 大島絵葉書
 
   
大島を描いた原画作品展 24.9.17−10.14
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      第1回 島で出会った中村彝(なかむらつね) 保田龍門(やすだりゅうもん) 

        

                  中村彝          保田龍門
    


                               

日時 8月1日から8月31日まで 10時から18時まで

会場 大島木村五郎・農民美術資料館(藤井工房)
                рO4992−2−1628

 二人の画家

保田龍門は20才から太平洋画会で絵を学び、明治45年21才で東京美術学校に入学しました。中村彝(なかむらつね)は保田龍門が太平洋画会に入った時には先輩研究生として在籍していたので顔見知りだったと思われます。
 龍門は大正3年の春はじめて大島に渡り元村(現在の元町)の千代屋に宿泊、翌年も春に来島、大正5年春には差木地に泊まっています。中村彝(つね)は結核を患い、新宿中村屋相馬黒光の娘俊子との恋愛がこじれ、「死を覚悟した大島への旅」で大正3年12月に来島し翌年3月末まで元村の三原館で過ごしています。二人が出会ったのは大正4年3月末頃と思われます。
彝の最高傑作と言われる「大島風景」は大島で描きあげ展覧会に出品しています。,
よく長根浜でスケッチしていたようですが、元村集落のもっと南から見た三原山のようです。死ぬつもりの大島行きであったとしても、大島作品や書簡からはそんなそぶりは見られません。島の自然や人情に接する中で創作の意欲も湧きだし、意欲的に作品を描いています。

 中村彝の書簡 大正4年1月元旦 (大島から投函)「・・何時も悠長な大島には暮れもなく正月もありません。女はこの元旦でも甲掛脚袢で働いて居ります。日は照り風はなく、椿は満開、水仙は地に香り、小鳥は高音をはって居ります。裏の山道から桜の林に分け入って、日当たりのいい所に寝転んで、遥かに海の音をきき、からからした地びたの草をなぶり、蜜柑を食べたりしながら、今日は只独り島らしいいいお正月を迎えようと思っております。・・」 大正4年3月「・・室の障子をあけると、紺青の海がきらきらと輝いています。また、大地や樹木が静かに幸福相に沈黙して、日にてり輝いているのです。如何にも春らしく、二度とこう言う景色は見られまいと思う位春らしく・・これを見ては、誰だって、たとえ画かきでなくとも、絵をかかずにはおられないと思います。私はとても辛抱がしきれなくなりました。欲望は自分を苛立たせ、焦慮となり、忿怒呪詛となって、自分の欲望と愛情を自然までも呪う様になりました。体が丈夫になりたい。そして思う存分絵が描きたい、自分は今そのことばかりを考えております・・」
 「生きてまた来んあてもなき島さとをとはに去り行く今日の寂しさ」という歌を詠んで彝は大正4年3月末に島を離れています。

保田龍門は2年続けて元村に泊まっています、来島の動機は画材を求めて、ということでしょうが、求めてという中に絵の行き詰まりを何とか抜け出したいという強い気持もあって、心の葛藤と経済的な悩みを抱えて大島に来ていました。そして大島で中村彝と出会うことになります。

保田龍門の書簡 大正4年4月12日(大島から投函)「・・僕は今大島の孤島の降りしきる急雨と波涛声に耳傾け乍らこの筆を執って居る。月のはじめに突然ここへやって来た。久しく思い恋ふて居たこの椿の島の自然と人生とは期待に背かず僕を慰めて呉れる事夥しい。山には桜散り、桃盛り、鶯、目白の奏楽が聞かれる。今日のようなしけの日は、かなり荒寥であるが、それでもあの呻なるような波の音は堪らなく嬉しい。島のアンコの整斉された健康美には驚く。ここの宿は月九円で、今は僕一人で声のよいお絹婆さんに大島節を教わり乍ら、孫のように可愛がられて居る。数日の中に都へ帰らねばならぬを思えば今から心残りだ。雨が多いので絵はあまり描けない・・」

そして翌年の4月には差木地から「僕再び大島へ来た、今差木地の春に親しんで居る。六月はじめまで居るつもりだ・・」、大正5年4月には「・・孤島生活はかなり淋しい、が又楽しい、余り描かぬ、毎日風が強い、出来るなら一年位居て卒業製作もこちらでやりたいと思って見る。」と書いています。

 大島で出会った二人は一緒にスケッチをしたのでしょうか、彝の弟子であった鈴木良三は、「大島で再会できた奇遇を喜こび・・ある日二人は差木地まで来た時、墓地のそばで輪になって讃美歌を歌っている人たちに逢った、・・そして命を大切にするようにさとされた。」というエピソードを自著「中村彝の周辺」に記しています。
 大島から帰った彝は、周囲の誤解と愛する者との別離から狂人のようになったと噂されていたが、夏の終わりに龍門の下宿を訪ね、「狂人でない証拠に良い絵を描いて見たいから君の顔を描かせてくれないか」と頼み、彝が描いた「保田龍門像」は10月の文展で二等(最高賞)を受賞しました。

海を渡ってきた画学生

多くの画家がパリを目指したように、まだ名の知れない画家や苦学生は「大成したければ大島を描け」を合言葉に海を渡ってきた。展覧会が近づくと「誰それは何処へ写生に行った、何々を描いているらしい」と噂話をしたという。大島を題材とした作品が評価されたりして「異国情緒の大島は写生として適地」という評判が定着したのではないだろうか。ある画家は、「大島は東京から近い割に南の島の風情が残り、冬も暖かくて着物も少しで済んだ、貧乏画家には楽園だった」と語っている。
 画家たちは元村を素通りして南部の差木地村や波浮の港に足を向けた時期があったようだ。ここからは推測になるが、画学生を大島に引き寄せた人物として画家「角野判治郎」の存在を見逃してはならないと思っています。

 角野判治郎は明治44年22才で美術学校に入学、大正6年卒業、そしてフランスに留学をした画家だ。美術学校在学中に何度か大島に来ている。何時から何日くらい大島で過ごしたのか、入手した資料の中から判断できるものはないが、学校が休みになると差木地村で暮らし、学生たちに「大島の魅力」を伝えたのではないだろうか。そして画学生が大島にくると差木地村へ招き面倒を見たのではないだろうか。

 この推測は角野の油絵を2点所蔵する差木地在住の方からお聞きした話が基になっている。「いつ頃だったか父が角野判治郎の面倒をみたことがあった、角野は体が弱く静養も兼ねて来ていたようで、父が搾乳の仕事をしていたので貴重な牛乳を届けていた」という話で、宿屋をやっていた訳ではなかったが、自宅のそばに隠居家があったので賄いをしながら面倒をみたものと思われる。画家として世に出た角野は後に東京のアトリエや神戸の自宅に谷口氏を招いている。角野が描いた大島作品「海景」は差木地村前浜の風景、沖には利島がはっきりと描かれている。龍門は角野の一年後輩の学生で、3回目の春休みには差木地村に泊まっている。龍門は差出人住所を大島差木地村5番地谷口朝太郎宅と書いた葉書を知人に出している、角野が世話になっていた隠居家である。交流を断定できるまでには未だ至っていないが 角野判治郎が関わっていたことは間違いないと思う。在学中の遠山五郎や林義明も来島している。

「中村彝と保田龍門の資料展」目録


                       中村彝

自画像 1909(明治42)年頃 1911(明治44)年 1916(大正5)

「大島風景」 「秋広由太郎像」「大島風景」「大島スケッチ」「海辺」「大島風景(墨)」「三原山」「大島の風景」「大島風景」「大島の風景」「大島の風景」「大島スケッチ」 1914(大正3)―1915(大正4)年
「大島」 「大島風景」1915(大正4)年  少女裸像 1914(大正3)年 
幼児 1915(大正4)年  大島から出した書簡類


                       保田龍門

自画像 1914(大正3)年 1915(大正4)年

「潮風にもまれた椿」「大島風景」1914(大正3)―1916(大正5)年
「新島」「新島がさかふる日」 1915(大正4)―1916(大正5)年
「天城かくるる日」「島の砂丘」「大島差木地」 1916(大正5)年

大島から出した書簡類

       角野判治郎「海景」製作年不詳

参考資料
@中村彝の全貌展(2003年)カタログ
A「大正の美と心 中村彝展」(1997年)カタログ
B由太郎<御影>大島再々訪 中村彝の取材補遺 米倉守
C大正のまなざしー若き保田龍門とその時代ー展(1994年)カタログ
D保田龍門・春彦展(2004年)カタログ

E「中村彝運命の図像」 米倉守著
F「中村彝の周辺」 鈴木良三著
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         大島を描いた画家の資料展 NO2 
   
      大島を描いた画家・文人の作品と資料展
 

 木村五郎研究会は大島を訪れた芸術家の調査をおこない、これまでに130人の画家の大島作品図録350点、文人180人の作品や紀行記などを確認することが出来ました。

 明治の後期から個性あふれる画家や無名の画学生たちが競って来島しています、彼らは小さな船に揺られて大島に何故来たのか、大島で画家は何を描いたのか、大島が画家に何かを与えたのか。多くの画家の作品と足跡を見比べることで幾つかの疑問が解決できるのではないでしょうか。
「大成したければ大島を描け」が合言葉だった時代、大島に何があったのか。
画家たちを迎えた島人の目線で「画家と大島」の分析を続けて行きたいと思います。
今回は画家の原画作品と文人作品の資料展示です、画家の不染鉄作品を特別展示するので、「不染鉄と大島」の繋がりまとめてみました。 【木村五郎研究会】

日時 平成19年10月12日〜12月5日 大島藤井工房にて

出品目録

鶴田吾郎「サシキジ」 伊東深水「島の女」「大島十二景のうち」
不染鉄 掛け軸「海村」「南風」「静閑」 不染鉄「南海之図」「大島から見た富士(仮題)」「日記書簡」
永田米太郎「あんこ花嫁姿」「いんぼんじり」「さいそくまげ」川瀬巴水「大島波浮之港」 前田政雄「大島のあんこ」 奥山儀八郎「大島木版はがき」 中出那智子「島娘」「泉浜」 小早川清「歌謡絵はがき」 前川千帆「東西島々帖」 石井了介「大島版画絵葉書」 石川美峰「あんこ絵葉書」東郷青児・宮本三郎・吉井淳二「島のあんこ色紙」 田崎広助「三原山」町田嘉章「椿」 藤井重丸「伊豆の大島絵葉書」
文人達の作品・資料 明治期から平成までの作品や紀行記360点ほか


     
       「画家と大島」第2回 忘れられた日本画家
不染
                    
            1891(明治24)年生1976(昭和51)年没


                 
                      不染鉄の素顔(昭和14年撮影)
 

                    
            想い出の伊豆大島岡田村(昭和30年頃)
         
 「東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話に聞く伊豆の大島へまいりました。・・・岡田村と言ふ淋しい村につきました。」
「・・伊豆大島(岡田村)へ渡り猟師を半分して三年暮らす。ほとんど村の人になる。山は椿とさつま芋。家々はランプでいろり。草屋根、釣に網に花札に思い出は書ききれない。離島故人情は忘れがたい。今は大方の忘れがたい人々は此世にない。もうこんな家はない。牛やにわとりが多い。猫も多い。」と画家不染鉄は記している。
大正3年から3年間岡田村で暮した画家不染鉄は大正7年から京都の美術学校で絵を勉強し、大正12年から強く印象に残った大島や南海の風景を描きはじめ、展覧会への出品を続け、毎年入選するようになった。不染鉄は日本画家だが、「鉛筆であろうとボールペンであろうと日本人がそれで絵を描けば日本画だ」と言ったという、多くの作品が漁船から見た岡田村の家並みや式根島などを題材としている。
岡田の沖合から見た村の風景画から大正時代の村の様子がよくわかる。左手前の岩場(勝崎)の右に砂浜が広がり、浜から山に向かって家が並んでいる。中央に描かれている鳥居は為朝由来の「八幡神社」、浜の右端には「龍王神社」の参道が描かれている。不染鉄が住んだ「ネギどんの家」は岩場の奥にある大きな家ではないか。同じ構図のどの絵にもこの家には人の気配が描かれている。
時には見える筈のない大島の鳥瞰図や海の中を泳ぐ魚も描いている。大島からこの画家には見えたらしい富士山と裾野の村の風景を描いた「山海図絵」という作品があるが「大正十二年十二月中旬大島へ参りました。暖かい島のことですから、海岸を散歩し乍ら、はるか水平線上の内地の山々を眺めていました。頂の白い富士山を見ているうちにいろいろな連想が連想を生んで果てしもないので、フトこれを画面に刻みつけたいと思ったのが制作の動機です。やって見ると色々な困難がありましたが、所謂画を作るのを目的としませんのでその心に浮んだありのままを表現することに力をつくしました。」と作品の作意を語っている。
奈良へ移り住んでからも頻繁に大島に来ていたのではないか、そう思わせる文章がある。
終戦近い波浮港の様子を絵葉書に描いているし、「昭和三年春、大島島内各村、それから新島、小笠原、東京府下の学校の図画展覧会が大島であって、審査員に頼んでいた不染鉄が展覧会は明日、と言う日になってもこないので、その役目が自分に回ってきた」と加藤淘綾は自著『旅帖』に書いてもいる。
岡田の村人は「ふぜんさんふぜんさん」と読んで親しく交わったそうだ、大島で世話になった岡田の人に作品を残して島を離れた。4点の作品が大島に現存、不染画伯のご家族からお借りした里帰りの3点と一緒に今回展示している。岡田の村の家々が描かれていない蓬莱山のような南海の孤島の墨絵は船で漁に出掛けたのであろう「式根島」の風景だと思われる。
近年不染鉄の遺作展を企画した京都の星野画廊はこの画家について、「人には若い時のある記憶が、幾度幾度も眼の前に突然フラッシュアップしてくることがある。不染鉄は幻のような南の海や、夢のような島を、静かな村を、そして不思議な波を描いてきた。それらは不染鉄が懐かしい過去の記憶の産物がもたらした、夢の世界ということなのだろうか」と書いている。
不染鉄は華々しい出品歴があったが、戦後は中央画壇とは縁を切り、悠々自適に過ごした。
「・・磯風荒い大島から花の京都へ来る。一パイの清水も大切な黒潮洗ふ島から・・」と回想、昭和51年に永眠した。平成19年の今年は没後30年にあたる、享年84。

            不染鉄「伊豆大島に関連すると思われる作品」
       
海村 1923(大正12年)年 

大島 1923(大正12年)年
生い立ちの記 1923(大正12)年 
山海図絵 1925(大正14)年
想い出の伊豆大島 1955(昭和30)年
南嶌 1955(昭和30)年頃
海村 1968(昭和43)年

想い出の海村 1968(昭和43)年 
潮騒 1974(昭和49)年
伊豆大島岡田村(家と舟) 1971(昭和46)年
大島関係の絵葉書 1965(昭和40)年から1963(昭和48)年
伊豆の国波浮港(製作年不明)

参考資料
@純情の画家不染鉄展(1996年)カタログ 奈良県立美術館
A画家不染鉄絵はがき集(2000年)カタログ奈良県立美術館
B日経アート「失われた風景 不染鉄想い出の伊豆大島」星野桂三
C没後30年不染鉄遺作展(2007年)カタログ 星野画廊
D「大島文学・紀行散策 大島を描いた画家たち 不染鉄と大島」(2007年) 時得孝良
                  

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                       藤井工房
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