画家を支えた3人

        
画家中出那智子 それは大島の宝です

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3人
 ふるさとを描く油絵展 中出良一(夫)は作曲家
   那智子  一口エッセイ@  那智子   
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                      画家を支えた3人 





          長島定一

    彫刻家を目指していた父
    


    
      昭和2年日本美術院試作展
            「南國」

那智子の回想

 「美しい赤い絵日記――あるとき父は私に、赤い表紙の美しい日記帳を買ってきてくれました。すべてはそこから始ったのです。小学校2年3学期のことでした。1年生の晩秋に一つ違いの弟が病気で亡くなり、父の顔母の顔も言葉少なく憂いに満ち、遊び相手を失った私は、しょんぼりとして学校から帰っても、父母の眼には淋しそうに見えたのでしょう。そんな時、父の買ってくれた赤い表紙の日記帳は、私の心の支えとなり、ページを開いて絵日記を書きはじめたその一瞬こそが、絵の道への出発点ではなかったでしょうか。そしてその絵日記は、父母の心の痛手を癒すことになったと思います。父母の嬉しそうな顔を見ると、私はまた励んで、次の日も次の日もページを埋めていくのでした。その日々が、私の魂の目覚めというか、人を見ても夕日を見てもまた花を見ても、それはとても美しく、やさしく、今までとは違って見えて来るのでした。そして徐々に、自然界には何一つ無駄なものはなく、すべてが快い調和の響きに彩られていることに気がつくようになるのです。その絶妙さに子供心にも電撃的な感動を覚えて落ちる夕日を見ていたりするのでした。」


長島定一は文展の吉田芳明の門下として牙彫、木彫を学び、三十才まで太平洋画研究所や日本美術院研究所で研鑚。三十一歳の時、病再発して大島に渡り静養、島を気に入ったようで大島に住みつき旅館業を営むようになった。当然ながら彫刻は断念し、しばらくは負担の少ない油絵を描いたりもしたようである。旅館には多くの画学生も泊っていた、昭和7年に来島した画家上岡美平もこの旅館「南島館」に宿泊している。上岡美平氏のご遺族から見せていただいた当時のアルバムには南島館の玄関で撮影した写真が貼ってあった。長島定一氏の姿は写っていないが、母親に抱っこされたまだ1歳くらいの那智子が画学生等と写っている。
長島定一氏は会得していた牙彫彫刻の技を使って大島特産の椿の実に大島風俗を彫刻する土産品を考案して大島の民芸品として売り出した、今もその技法は生き続けているのである。       
長島定一氏が日本美術院の研究所にいたことを中出画伯の著書で知り、手持ちの資料を調べてみると、昭和2年の第10回日本美術院試作展に長島定一氏は「南國」というゴーギャンの雰囲気の裸婦3人の彫刻を出品していた。同じ展覧会に木村五郎も出品、入選してる。当時の日本美術院で彫刻に取り組んでいた芸術家はそんなに多くないので本人同士は面識があったものと思われる。しかし、長島定一氏はこの作品展に一度出品しただけであった。彫刻を断念した時期と重なることになる。また、木村五郎も昭和2年秋までは大島へ来ていないので、二人が大島で再会して言葉を交わしたかどうか、それは分らない。
 彫刻作品「南國」は大島で大事に所蔵されている。(藤井工房記)

 




          宮本三郎

           才能を感じ取った恩師


      
          自画像
 

   
      昭和12年「牛を牽く女」



  宮本三郎が大島を題材にしたと思われる作品

  昭和32年「薪を運ぶ人」
  昭和33年「乳牛2点」
  昭和34年「島の娘
(色紙)

  小 松 市 立 宮 本 三 郎美 術 館
画家の宮本三郎の最初の来島は昭和7年頃、昭和12年「牛を牽く女」を描き二科展に出品、昭和13年には式根島の作品を描いている。昭和31年に牛を写生する目的で大島を訪れて「乳牛」という絵を描き上げて昭和33年の展覧会に出品している。大島で平凡に暮していた一人の娘(中出那智子)と宮本三郎(51才)の出会いがその時生まれている。宮本三郎画伯との話を中出那智子著書(平成7年出版)から抜粋してみる。

《那智子画帖》宮本三郎先生との出会い―
 父は、昭和の初めに院展に出品していた彫刻家でしたが、胸を患ったため医師から彫刻を断念するように強く言い渡され、転地療養のため伊豆の大島に居を定めて住んだのでした。昭和の初期、大島は常春の島として作家や多くの画家に愛され、故宮本三郎画伯もそのお一人でした。ある時、上京した父が用事を終え、大島行きに乗ろうと芝浦の汽船の待合室にいたときのことでした。一見して芸術家とすぐわかる上品な御夫婦が、「これから大島に行こうと思うのですが、泊るところはあるでしょうか」と父に話しかけてこられたそうです。「それでしたらどうぞ私の家にお泊りください」そう答えると忽ち楽しい会話が広がって、宮本三郎先生と父との親交が始ったのでした。
 時は昭和6年の晩秋か昭和7年の春先、私が1才の時でした。奥様には生まれたばかりの赤ちゃんがいらしたのだけれど、先生にお供して大島にきてしまわれたので、おっぱいが張って困っていらしたとは、あとあと、母から聞いた話です。さて、それから戦争や疎開などがあって、やっと少し平和が訪れた昭和31年、私が23歳になった時、再び宮本三郎先生は奥様とご来島され、「あれ、貴女があのときの赤ちゃん?」と思わぬ再会に家中喜びに湧きたちました。その時は、牛のスケッチが目的だったので、私が牛のたむろする砂浜にご案内いたしました。
 大島旅行が終わっていよいよお帰りになる日の乗船前のひととき、私は思い切って少女時代に描いた例の赤い表紙の絵日記と画帖を先生に見ていただくことにしました。先生は北側の窓辺にお座りになり「ほほーっ」とおっしゃって絵日記を食い入るようにご覧になり、「大人が苦しんでやっていることを子供の貴女がなんの衒いもなくやってのけてる」とおっしゃってくださり、入浴している絵のタオルの描写など、一つ一つ褒めてくださったのでした。その嬉しかったこと。あとにも先にもあんなに目の前が明るく光りに満ちて人生が輝いて見えたことはありません。手にしていらした煙草の火がだんだん下に下りて行き、灰が四センチにも五センチにもなります。何か言おうとする私の口も、先生の熱心に見入って下さるその気魄に押されて声も出ません。
 あの一瞬のかけがえのない緊張感こそが、今日までの私の画業を支えているのだと思います。奥様も側で何度も何度も先生のおっしゃることに相槌を打って、ともにご覧下さり、一生を通じてこの時ほど幸せなことはありませんでした。それ以来、先生は私に二紀会への出品をすすめて下さり、同人推挙、受賞と幸運が続き、外国に住んでいる時も、二紀会同人として特別の待遇をして下さっており光栄に思っておりました。」


宮本三郎の主題は人物や花などが多く、独自の色彩感覚は一見してそれとわかるこの画家だけの作風であったと言われている。多様な彩色手法は中出那智子画伯へ受け継がれているのではないだろうか。      (藤井工房記)





        中出良一

      音楽家だった伴侶


      




  昭和57年ペルー取材の中出那智子と良一
中出那智子が宮本三郎画伯に幼き日に描いた絵日記を見てもらい、絵の素質を認められた記念すべき日から数日後、船の待合所で椿細工のお土産を売っている時、大島の音楽教師になるために元町港に降り立った青年が「高校はどっちですか」と聞いたそうだ。後に夫となる中出良一との運命の出会いとなった。
 芸大音楽学部声楽科を卒業後、昭和31年から1年間都立大島高校で音楽の教師を勤めた。大島から郷里石川県金沢市に戻り、32年に那智子と結婚。
 昭和40年、ブラジルサンパウロの芸術村運動に参加して音楽部門を担当。41年には那智子も合流。
 昭和54年帰国、良一は作曲家として活躍していたが、昭和62年に急逝。多くの詩人の作品に曲をつけ、自らも詩を書いた。


那智子は中出良一の書簡を綴った「那智子への手紙」(2000年発刊)のまえがきで次のように書いている。

 すべてのことは、遠く遠く淡く淡く、空を彩る雲が忽ち掻き消えるように、まだ浜辺に打ち寄せる彼の、玉砂利に身をゆだねて魂も砕けよとばかりに打ちつけられるように、時が経てば、何事もなかったように消え去って、あとには何も残らない。わずかに海の藻屑が水辺に打ち上げられて、点々とその痕跡を残すだけ。大きな宇宙から見れば、あったかなかったか分らぬほどの、ささやかなできごとだろうけど、身を焼き心を焦がした二人にとっては、この流した涙は何だったのかと問いただしたくなる。人と生れて無事に生きてゆくからには、どうしてもその生きて行く上での、不思議な出会いと出来ごととがある。
 ましてや、一人は音楽を志し、もう一人は画家を志す身、旧佳き時代ならいざ知らず、時は戦後の、まだ生活も整わないような、豊かさの兆しすらない、何にも物のない時代。伊藤左千夫の『野菊の墓」を涙して読んだ時代。何にもない水平線、何にもない海岸線、何にもない海辺への道。それらはすべて、恋をする者にとって美しく、簡潔で、何故か、しっとりと似合っていた。何故かそこに生きている者の心を混乱させることなく、一途にさせていた。美とはまさしく、心に響いてくるものであるならば、すべてが心に響いてくる要素を持っていた。三原山にたなびく煙、溶岩の突き出た凸凹道、潮風にたわむ松、その繁みの匂い。一日2回聞える聞える東京行きの出航の汽笛。一日砂浜で草を食む牛。岬を回るはしけの音。
貨物船に積まれる子牛の眼。泳ぐ肌にまつわる夜光虫。なだれ落ちる流星。突如として湧く霧。それらは島影を包み、愛撫し、つぶやいては何こともなかったように、夕日と共に退場して行く。やがて、畑から帰る人たちの語らい.崖に咲く百合や釣鐘草のささやき。椿の花のコーラスもピアニッシモに。巣を求める目白やうぐいす。黒くしずもる樹林。これらはすべて、多くのものを見、多くのものを聞いてはいても黙すばかりで、個々の物語を知りはしない。
 最近よく、中出良一に関することや、私のことも質問されることがしばしばだが、夫、中出良一の若き日に私に送られた70通の手紙こそ、何よりも多くのことを如実に語っている。この70通の手紙を通して窺える、生きざまの魂の記録こそ尊く美しい。平成8年に、私の母校である都立大島高校から創立50周年記念の、同窓生名簿が送られて来た。私は、夫がこの学校で音楽を教えていたことがあるので、懐かしい記憶を辿るため昭和31年度のページをめくってみたが、そこには夫の名前はなかった。何故 どうして 何で 何日か経って心を静めて考えてみると、それは彼が非常勤講師だったという事実にぶち当り、理屈ではそうかと納得しても心情的には少しも納得出来ない。寄宿舎の寮母、農場管理人、事務員などみんな完全な形で列記してあるのに、非常勤講師だった彼の名前はどこにも記載されていない。この事実が、何故か私に深い衝撃を与えた。ではあの賑やかに盛り上がっていた、学校祭や音楽会での活躍や人気は何だったのだろうか。中出良一を知っている者にとっての共通の想い出や、エピソードもここでは全く無とされている。これでは、中出良一が一年間大島に住んだという記録は何処にも存在しないことになる。
 彼の作曲した処女作「さくら貝」は、大島町元町の弘法浜を散策中にそのアイデアの起源があったので、私は後世のために、このことを語り継いで行きたいと思います。
 平成8年大島町にて「さくら貝ふれあいコンサート」が開催され、50名の出演者と400人の聴衆を得て盛り上がり、翌朝中出良一を偲んで作曲の発端となった弘法浜を散歩、傍らの声楽家の加藤恭ニ子さんに「ここに中出良一の石碑が建てられたらステキね」と語りかけると、彼女は大いに賛同して下さったので、私は思わず心の中でさくら貝の歌を歌っていました。赤いちっちゃなさくら貝 遠くはるばる来たのでしょう 波に揺られて風に揺られてついた浜辺は砂ばかり・・・



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