開館まで・開館からの足跡です

 
「木村五郎・大島農民美術資料館・藤井工房」ができるまで、念願だった

「木村五郎の生涯と足跡」を明らかにすることができた冊子の発刊(企画と

資料提供)その中に大島木村五郎研究会の活動の経過をまとめて載せてもら

いました、文字ばかりですがお読みください。

      
藤井工房にあるもの それは大島の宝です


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 平成11年度離島人材育成基金助成事業レポート

   木を刻む「木村五郎・大島農民美術資料館」のこと   藤井虎雄

   
   彫刻家との出会い

 昭和の初期、大島では限られた水源の井戸に朝夕おんな達が水を汲みに集まり、桶をささいで(頭に乗せて)細い坂道を行き来していました。島の宿命と言える水不足、暮してゆくために欠かせない飲料水を確保することは大変な仕事でした。そんな南の島の風俗を見事な木彫人形で表現して、働く女性の姿を彫る技術を島人達に伝授したのが彫刻家木村五郎先生です。不定期だった船便がようやく毎日発着するようになり、あんこ姿と三原山と椿の島が観光地として注目されはじめた頃の出来事です。
 それから70年も経った平成8年の春、大島の文化・風俗を大事にしたいと活動している島っ子が当時の木村先生の大島風俗人形や作品絵葉書、島人が作ったあんこ人形を集めて『蘇える夭折の彫刻家木村五郎展』を開きました。眠っていた人形たちが色褪せることなく復活した瞬間でした。そのあと『木村五郎伊豆の島々を行く』という小冊子が発刊されました。この本には芸術家は9回大島に来たこと、若くして才能が開花したが37才で亡くなってしまったこと、見事な島娘の木彫作品などが掲載されていました。それが私の木村五郎との出会いです。島っ子達の仲間に加えてもらい、『木村五郎のすべて』の発刊を合言葉に平成10年の冬「木村五郎研究会」が生れました。
 私の父はあんこ人形を彫り続けた木彫職人で、その人形の原型が木村五郎先生の発案であったことが興味の発端でした。父が60年近く刻んできたノミを措いたのは84才になった平成5年、この時点で「あんこ一刀彫人形」の製作は途絶えてしまいました。

  資料収集はじまる

 会員それぞれの思いと手法によって資料が集められました。木村五郎は日本美術院彫刻部の同人で、彫塑研究のかたわら山本鼎(洋画家・版画家)が主宰する「農民美術運動」の木彫講習会の講師を積極的に勤めていました。大島のあんこ人形も講習会で島人に教えたものです。
 私は現地調査のために農民美術の発祥地である長野県上田を訪ねて、昭和初期の木片人形と現在の木工作品を見ることができました。農民美術の家と名付けたアライ工芸の2階には、初期の作品と貴重な資料が展示されていました。こんなに農民美術を大事にして入る人がいることが判り、大きな励みとなりました。翌日には松本を経由して穂高町の碌山美術館に行き、長く日本美術院彫刻部の作品を研究されている千田学芸員にお話を聞くことができました。この美術館は、荻原守衛(碌山)の作品と近代彫刻の系譜の作家の作品を収蔵展示しています。木村五郎も研究対象の1人です。当時交流があった作家やそのご家族、作品所蔵者を紹介していただきました。照会してお返事をいただけた方を富山や新潟にお伺いいました。木村五郎の位牌を守る身内の方をお訪ねしたりと、調査が一気に進みました。才能溢れる彫刻家は大島を愛した好青年の一面を見せながら、我々に近づいて来ました。

  夭折した芸術家の生涯

 五郎さんは建具職の家業を継がず仏像彫刻の道に進みますが、大正7年、20才の時の因習的な彫刻修業に不安を感じ、当時美術界で真摯な創作活動をしていた石井鶴三の門を叩いて、教えを乞うようになります。大正8年に山本鼎が「趣味と実益を兼ねた産業の成立を目指した農民美術運動」を提唱して、活動をはじめます。石井鶴三と山本鼎は芸術家同士の付き合いが深く、また2人で登山するような間柄でした。
 五郎さんは大正9年、日本美術院研究所会員となり塑造の研究を本格的に始め、10年から日本美術院展や試作展に出品するようになりました。大正13年には、鶴三宛に「東京に農民美術研究所が出来るようなのでそこへお世話願えないか」と手紙を書き送っています。14年には五郎さんの初の作品展が開かれ、少女像や地方の風俗作品など23点が出品されました。それらは農民美術作品と合い通ずる庶民的な素朴な姿でした。15年12月、彫刻制作のいろはを解説した『木彫の技法』という初心者向けの本を出版、地方産業振興策としての五郎さんの風俗人形が注目されました。京都宇治を皮切りに、長野川路、秋田大湯で、五郎さんは日本農民美術研究所嘱託として講習会の指導にあたりました。
 昭和2年の秋、遠縁にあたる大橋という人が大島に移り住んでいたので、五郎さんは初めて遊びに来ました、その時のあんこ姿が印象に残ったようです。昭和4年1月、全国に広まった農民美術木彫講習会が大島で開催されました。各地の講習会では、その土地の暮らしぶりや名物が木彫で生き生きと表現されています。大島では「水を汲み運ぶ姿」と「薪をささぐ女」の2体が人形になりました。昭和5年までに3回の講習会が行なわれました。五郎さんは指導のサンプルから発展させた芸術作品に仕上げた「伊豆大島風俗」6体を日本美術院に出品しています。当時の日本美術院展覧会のなかにあって、郷土風俗木彫は異彩を放つ作品でした。新島・式根島・八丈島へも渡り、作品や紀行文を発表しています。多くの未完作品を残して、昭和10年の夏に37才で急逝しました。

  途方もない夢・資料館を作ること

 資料の発見とともに、私の気持ちは五郎さんに吸い寄せられていきました。作品への着眼と表現力、素顔の人間性など興味が尽きなくて、夢中で資料を探し歩きました.並行して、農民美術運動については全国郷土玩具の会会員である山口畑一さんから、各地で作られた木彫人形や時代背景などについて、一から教えていただきました。運動に取り組んだ山本鼎をはじめとする指導者と受講生の意気込みを強く感じました.農民美術運動は大正8年から始まり、昭和10年、戦争や経済不況の影響を受けて衰退、日本農民美術研究所解散により活動が止まってしまいました。この10数年あまりの熱心な活動、特に日本農民美術研究所の指導により、全国80数カ所で開催された農民美術講習会やその組合の動向や人形の形態について、体系的にまとめられていないようです。「民衆芸術の木片人形」が、民俗学者の宮本常一や民芸運動の柳宗悦らに注目されずに来てしまったことが残念でなりません。時間の経過とともに多くの真実が闇の中へと消え、忘れ去られようとしています。
 私は、父が彫刻を終わりにするまでの最後の1年間は、時間が出来ると店に通って人形制作を見ていました。そして「後継ぎとして人形彫りの仕事をやりたい」と伝えましたが、「これからの時代、こんな仕事では商売にならないから辞めたほうがよい」と言われ、そのことはあきらめていました。資料調査の途中から、彫刻家木村五郎・大島農民美術・父の生涯をかけたあんこ人形・各地の農民美術・途絶えてしまったあんこ人形の復活を目指す工房が助け合えば、一つの仕事になると思うようになりました。夢を実現するための一番高いハードルは、充実した資料集を作り上げることでクリアーできる、と勝手に思い込んでいました。多くの方のご協力により、予想を遙に越える膨大なものとなりました。親交が深かった石井鶴三家からは、五郎さんが書き送った48通の書簡類(原本)を提供していただきました。若い頃に五郎さんのそばで彫刻を勉強した現役の彫刻家半藤政衛先生にお会いして、彫刻の魅力や五郎さんの彫刻への姿勢などお聞きすることが出来ました.五郎さんの身内の方からの写真や手紙の寄贈、所蔵作品の一般公開も可能となりました。大島に残っている五郎作品と関連資料も借用できることになりました。そして私は資料館を作る決心を固めました。平成11年3月に29年勤めた公務員を辞め、8月末の資料館開館と資料集発行に向けて準備を続けました。アッという間の5ヶ月間でした。純粋な心を持った芸術家の資料集は『童心の彫刻家』と『作品とおもかげ』の2巻組(延477ページ)です。

  木のぬくもりに集う人形たち

 残暑が厳しかった8月28日、「木村五郎・大島農民美術資料館・藤井工房」がようやくできあがり、開館記念講演を碌山美術館の千田敬一学芸員にお願いいたしました。五郎さんの作品の解説や彫刻のお話を聞くことができました。「重い水桶を頭に乗せてデコボコ道を歩く姿(姿勢)は人体の中心・軸と深い関わりがあり、彫刻研究のテーマがあんこ姿にあったのではないか」と話されました。資料集のお披露目もすることができました。
 木村五郎生誕100年、農民美術運動80年の区切りの年に資料館と資料集が完成、記念すべき年に分身が生れた訳です。木村五郎五郎の作品18点、島人が作った木彫人形約80点、農民美術研究家の山口先生が執念で集められた全国の農民美術生産組合の木片人形など233点、私の父の初期から晩年までのあんこ人形50点と関連資料が常設展示されています。五郎さんの身内の方々から芸術作品を6点出品していただくことが出来ました。展示の規模など諸条件を考慮して、入館は無料としています。藤井工房では父が作り残したあんこ人形や仕入れた木工芸品の販売、喫茶店の営業が全収入となります。今は電気代と館を維持する経費で消えてしまうような収支ですが、物を作り出す場所として前向きに取り組んでいけば、いつの日か道が開けると信じて開館しています。私は父の人形を手本として、五郎さんの『木彫の技法』を読みながら、講習会の受講生の気持ちで人形制作の修業中です。一番の難題、今は形を真似るだけで精一杯ですが、100体も作ればもっと見えてくるものがあると思っています。父には原木の中に人形の姿が見えていたようです。

  小さな資料館の行方

 開館から10ヶ月が経ちます。入館者は延べ3000人くらいです。島の常連客、館内掃除を手伝ってくれる人、花を届けてくれる人も出来ました。春には資料館のポスターとパンフレットを作り島内の観光拠点に置いたり、全国の彫刻美術館や人形資料館などに掲示とPRのお願をしました。
 観光立島の大島にとっては、活用価値のある場所ではないかと思っています。しかし、私が思い描くほど観光業者や行政機関の関心度は残念ながら高くありません。入ってみたい、あの人にも見せたい、ゆっくりのんびりできる場所で一休み、そんな空間をこれからも目指します。見る資料館にプラスして手づくりが体験できる「あんこ丸彫人形教室」を随時開いています。大島の印象が鮮やかになるちょっとした体験は好評です。
 資料集に次ぐ冊子として、『大島の風景』の発行を木村五郎研究会で計画しています。明治の後期から昭和の初期にかけて、多くの文化人が大島に来て作品を残しています.特に「大成したければ大島を描け」といわれ、画家たちが競って大島の印象を独得の画法で表現しています。大島の風景や人情は、芸術家の生き方や作風まで明るくしたようです。財団法人日本離島センターの離島人材育成基金助成事業の支援を受けて、当研究会の活動意欲は何倍にも膨らみました。そして『大島の風景』に繋がりました。これまでに、65人の芸術家のスケッチや作品を確認しています。島の風景をまとめて見ることで、島の魅力の再発見が期待できます。

  木の声を聞きたい

 大島を愛した彫刻家は芸術作品の創作だけでなく、木彫入門書や彫刻批評を執筆、精力的に農民美術指導をおこない、彫刻の普及とその水準の向上に力を尽くしました。五郎さんが大島に来てあんこ人形を教えてなければ、私の父は人形を作ることはなかった。そして私もこの資料館を作ることもなかったと思います。無言の人形と話がしたい・・・人形の声が聞えることは、自分自身とはなすこと、自分を見つめることだと思います。あれこれと思考錯誤をしながら、もうじき開館から1年を迎えます。
 資料館の窓からは海と伊豆半島が見えます、潮のしぶきが飛んでくるような荒れた日の波の音、太陽をキラキラと映すベタ凪の浜、刻々と変化する波の形を見ながら五郎さんと木彫人形たち、そして私は此処で暮しています。

 
「これは彫刻になっております」-木村五郎の彫刻とその生涯- 千田敬一著


          本文214ページから218ページに掲載されているものです

 

 発刊に至るまで 木村五郎研究会 藤井虎雄

 伊豆大島の木村五郎研究会は、長年に渡り大島を舞台にした作品を書いた文人(詩歌人・小説家など)たちの足跡を調べ出し、『大島文学散策』にまとめコツコツと発表してきた時得孝良、国会図書館勤務の経歴を持ち故郷大島にユーターンしてから二十年以上もテニス愛好会を育て、テニス会報を二百号まで発行、新しく季刊の文化通信誌「シデ」の編集をはじめていた大西外美夫、この二人が木村五郎に興味を持ったことから静かに動き出しました。

 彫刻家木村五郎の業績と大島との繋がりが文化通信『シデ』紙上ではじめて紹介されました。大西編集長はタイトル『シデ』について、【昔、水の乏しかった大島では、樹木伝わって流れてくる雨水を、藁縄を木の幹に結びつけて伝わらせ、大きな甕に貯えて飲み水にした。これシデという。なかでも椿の木から取った水が美味いそうだ。先人が天から一滴一滴の恵みを大切にしたように、毎日の暮らしの中の一こま一こまを書き留めて、暮らしの潤いに、もし、少しでもできたなら、と考えた】と創刊号(平成八年五月)で語っています。

 夏に発行された第二号には《いまなぜ木村五郎なのか》の見出しで、【ひとりの老人が、若い頃見た絵葉書のことを思い出していた。「あの絵葉書はもうないだろうか。そう、木村五郎さんの絵葉書」。また、長野の美術館からも木村五郎氏の作品について問い合わせが来ていた。老人は芸術家の祖父と木彫人形を作った父を持つ人の家からようやくその絵葉書が見つかったことを知った。「これだ」彩色の彫り物の絵葉書。六十数年の歳月を経て、今、私たちの眼前に蘇る】と五郎に注目したきっかけを書いています。

 木村五郎の木彫作品や絵葉書のパネル、彫刻家の写真も展示した「蘇える夭折の彫刻家木村五郎作品展」(平成八年六月)を開催、彫刻家とあんこ人形の存在を島の人たちに知らせました。作品展の資料を『時得編 木村五郎伊豆の島々を行く 大島・新島・八丈島』という木村五郎の紀行文や農民美術、急逝した木村五郎の追悼文や年譜を収録した小冊子を夏の終わりに二人は自費出版しました。あとがきには【木村五郎の作品に光を当て、ギャラリー大西での開催にいたる経緯については文化通信シデ二号の中で簡単に述べた。それを一つの契機に、時得君は木村五郎に関する文献や作品目録に収集に国会図書館や芸大図書館を回っていた。(中略)街中での作品展は、思った以上の反響があった。それは爆発的なものというのではなく、静かに、しかしずっしりとした重みのあるものであった。これを何かの形に残しておきたいと思っていた時、時得君の収集の仕事がまとまっていて、「木村五郎・伊豆の島々を行く」の発行の話がでた。機が熟すとはこういうことを言うのだろう。木村五郎をめぐる様々な動きが、何ものかに引き寄せられるようにして一つの力になり、今回の上梓となったことは喜びこのうえない。作品を大切に保存してくださった藤井一恵さんのご家族の方に感謝し、木村五郎の仕事と全体像を明らかにした時得君の努力に敬意を表する。】無論、まだ追求しなければならない課題はあるだろう。昭和の初期、木村五郎が提起したものは、我々にとって永遠の課題だ。六十余年の歳月を経て、今、夭折の彫刻家木村五郎は蘇った】と記されています。

 平成九年一月、「大島町私蔵文化財展」に木村五郎の作品と資料、木彫指導を受けた島人が作ったあんこ人形を二人は展示しました。郷土玩具人形を研究しておられる埼玉在住の山口畑一氏が私蔵文化財展に来島、大島と山口氏との交流が始まりました。

 木村五郎が発案し、島の講習会で彫刻指導をした人形が、あんこ人形を六十年彫り続けた父親の人形の原型であることを知った藤井虎雄が二人の取り組みに興味を持って合流、平成十年の冬、「木村五郎のすべてを知ろう」を合言葉に木村五郎研究会が結成されました。当初の予測を遙かに越える資料を集めることができ、木村五郎生誕百周年にあたる平成十一年に木村五郎資料集(二巻組・総ページ数四七七)を発刊、同年八月研究会員の藤井は木村五郎の縁者から木彫作品や資料などの寄贈や寄託を受け、私設の「木村五郎・農民美術資料館」(あんこ人形の藤井工房併設)を開館させました。

 木村五郎研究会発足から五年を迎えた平成十五年から「木村五郎の生涯」をまとめる作業に取り掛かりました。しかし構想を先に進めることは出来ませんでした。そこで、木村五郎・農民美術資料館の開館記念に講演をしてもらい、今までずっと縁が続いていた近代日本彫刻史の研究者であり、日本美術院百年史の彫塑部の同人評伝を担当した千田敬一氏に執筆を依頼して『これは彫刻になっておりますー木村五郎の彫刻とその生涯』が誕生したのです。 

 木村五郎研究とは別に、大島を題材にした画家や文人の足跡が島の先輩たちによって語り継がれてきているので、木村五郎研究会の手でもっと詳しく調査してみよう、という話が進んでいます。もちろんこれらの芸術家のなかにあって「木村五郎」の感性がより際立つことを信じ、木村五郎が見たであろう「大正から昭和初期の大島の風景」を中心に掘り起こしを続けています。

 作品調査は進み、百数十人の画家が描いた三百五十余点の大島作品が確認できました。『三造君(和田三造)はパリに来ても大島の美を説いた。・・早く日本に帰って大島に行きたいな、と言っていた』と有島生馬は「大島の桃源郷」に書いています。中村つねは、死ぬ覚悟で来た大島で三ヶ月余りを過ごし、島の自然や人情に触れるうちに創作の意欲も湧き出し、傑作を言われる「大島風景」を描いています。つねは「生きてまた来んあてもなき島さとをとはに去り行く今日の寂しさ」という歌を詠んで島を離れています。まだ無名だった棟方志功は昭和七年頃に大島を訪れています。著書『板極道』で、「大島に行って帰ってから、わたくしの仕事全体に、大きな見廻し、見通しがおとずれました。それまで暗かった絵が妙に明るくなったのでした。ただ明るくなったというよりも、自然な明麗さが随ってきたともいいうるようになったのでした」と振り返っています。大島がどのような島であったのか、それを物語るようなエピソードが残っています。

当研究会は文字通り木村五郎という彫刻家の研究が目的ですが、「大島の文化を大事にしたい」という発起人の共通の思いが新たな活動の原動力となっています。これからも研究会は木村五郎の生涯と作品・あんこ人形・農民美術・大島を描いた画家や文人墨客の作品を「後世に伝える大切な文化的財産」と位置付けてこれからも活動してゆきます。そしていつか次世代の島人が新しい発想で資料を活用してくれることを願っています。

なお、大島の資料「大島元村・元町今昔」として昭和初期の元村と現在の餅町の地図と木村五郎が訪れた場所、当時のもとむらの雰囲気を知ることができる写真を載せました。

この本は、離島人材基金事業の支援を受け、千田敬一氏著、木村五郎研究会の企画・資料協力により発刊となりました。表紙カバーの作品は昭和五年第十七回日本美術院展に出品した「前垂れを被る人(伊豆大島風俗)」です。

 

2005年6月10日 初版第一刷発行


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 藤井工房
        所在地 東京都大島町元町2−1−5     
          電話・FAX 04992−2−1628         
  入館無料 休館日は毎週水・木曜日

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