自称「ロシア未来派の父」ダビッド・ブルリューク著

       伊豆大島紀行記「大島」の翻訳全文の紹介 

 

        
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  鈴木明翻訳
自費出版書
 大島書票展 作業中   *   *

    「大島」   
    1921年2月12日
    ダビッド・ブルリューク小笠原にて記す 
    鈴木明訳 2001年9月初版出版 

    鈴木明訳 2009年10月改訂版出版 
 この「大島」はウラジオストックの新聞「ゴーロス・ロージヌイ」に横浜から寄稿しました。チェコ人画家ヴァーツラフ・フィアラが挿画を添付しています、今回の改訂版には新たにフィアラの5枚の挿画を入れました。

 
改訂版 在庫なくなりました
            
                       

  

 出版にあたり

 本書は、現代日本について私の手書き原稿からの著作の一つである。
 日本に関しての私のメモや記録は、ロシアの読者の強い関心を引くであろう。何故なら私はこの「菊の国」で二年間を過ごし、シベリアの隣国、太平洋文化を代表する一つの国の風俗習慣を比較的間近で研究したからである。

 著者は、画家ビクトル・ニカンドロービッチ・パリモフ(後にウクライナ共和国キエフ芸術大学教授)と共に、一九二〇年十一月、写生のため大島に滞在した。


目 次

  一  波立つ海 1
  二  大島とは如何なる処 2
  三  日本の旅館 4
  四  富士山 6
  五  ネエサン 7
  六  二人連れ 9
  七  黄金の船 12
  八  墓地 13
  九  火山 14
  十  士官殿の話 17
十一  月の夜の眩惑 19
十二  性悪女 28
十三  リウマチ 33
十四  恋の十二ケ月 36
十五  漁師達 37
十六  食器洗い 39
十七  いにしえの記憶 39
十八  独り身は、つらいよ 40
十九 色恋に関する若干の所見 42
二十 士官殿の物語、その二 44
二十一 エピローグ 73
二十二 住むなら海辺だ! 76
二十三 アルコールのプリズム 79
二十四 士官殿が日本へ行った話 80
二十五 飽きることのなかった元村 82
二十六 海を渡って 83


ヤポンスキーデカメロン

一 波立つ海

 昼間、埃っぽい瓦屋根越しに東京湾を見ると、まるで太鼓腹のような太平洋が、東京の街に覆い被さってくるかのように見える。けれども夜の海岸沿いの小路は、これとは全く違う印象を与える。
 提灯の灯りが、提灯に書かれた文字を暗い横町に映し出している。居酒屋の戸口では紺暖簾が夜風になびき、その下から菜種油で揚げる魚の匂いが漂う。その家並みの向こうに、帆柱の先端が空に突き出ている。そう、ここは波止場なのだ。しかし東京から出る船便は少ないし、東京からの旅人を待つ大洋の島々も、そう数があるわけではない。
 大島へは、まさにその東京からしか船が通っていない。島まで僅か七十キロ、船は夜の八時に出航する。それは汽船というほどでもない、木造の船なのだが、それでも桟橋に接岸できない。船は岸から離れた暗い川面に留まり、乗客は平底の小舟に乗って乗り降りする。
この木造船が東京湾に出るやいなや、小さな波にさえ翻弄され、それはまるで子供が鞠と戯れるようである。船室は、二等と三等に分かれている。三等室は鮨詰めで、船客は茣蓙を敷いた床に寝ている。戸口には下駄が山積みになっている。二等室には三人の日本人と、三人のロシア人がいる。二人の日本人は大島の住人で、薬剤師と旅館の主、もう一人は島の発電所に向かう技師である。


二 大島とは如何なる処か

 その答えを得るには、まず夜明けを待たなければならない。それで少しは分かるだろう。
打ち付ける波、風の音、その上雨まで吹き付けて、汽笛を鳴らせど岸からは何の応答もない。波が高く、船が到着しても、島から迎えの小舟が出てこないのである。それでも本船からは再度の汽笛を鳴らす。船は大揺れだ。船室に敷かれた滑りやすい茣蓙の上では、両手両足を踏ん張っても、身体を支えられない。六人の船客全員が、あっちの壁、こっちの壁と、転げ回っている。荷物はもっと大変だ。手荷物を掴まえるのは、飛び跳ねる兎を掴まえるより苦労する。
 確かなことは一つ、夜が明け始めたことだ。甲板にはシートが被せられ、降りしきる雨と飛沫を揚げる波とで濡れている。その舷側の向こう、どんよりとした灰色の空の下に、三百メートルほど離れた海岸線が黒く波間に垣間見られ、何軒かの小屋と海に向けて並べた小舟がかすかに見えている。
 島の中央には山並みが連なっている。その高さはクリミヤ半島南岸のバイダールスキー・バロータ峠程であるが、その様子は全く異なり、頂上から麓までいくつもの谷が刻まれていて、山肌はすべて灌木に覆われている。その谷は、老婆の口元にできた皺のようで、皺はすべて山頂の口元に集まっている。山が萎びて皺が出来たのか、それとも山のてっぺんに出来た漏斗から、樽の水が溢れるように、大量のねばねばした液体が流れ出たに違いない。
 すべてが灰色の雨に煙っている。もやもやと山裾を這う雨雲は、人家よりも上にあるが、山頂の鋸歯は隠していない。
 タラップ付近が船客で混みあってきた。小舟がタラップの下で揺れ、近付いたり離れたりしている。筋肉逞しい船方達が、女達を手で支えてやっている。
 ロシア人の一行、三名も、小舟に乗り移った。一人は太った、年の頃四十近い男で、ビロードのズボンをはき、ベレー帽をかぶっている。二人目は大きな口髭を付けて眼鏡を掛け、かつてはコルチャク軍の士官だった男、三人目は黄色い顔に狼のような小さな目を付けた、未来派の画家である。
 旅館の主は自分の傘を開くと、ビロードのズボンをはいた画家にうやうやしく差し掛けた。霧雨である。ほとんど丸裸の船方二人が、大きな櫓を操って我々を岸に導いた。
旅館の主は、海岸沿いの「ホテル」の脇を通り過ぎ、三人のロシア人を案内する。薬局の前を通り、床屋を過ぎ、牛乳屋や幾つかの店を通って、節の多い木の柱で飾られた門の前に出た。鴨居の鉄の看板には電灯が取り付けられている。塀はなく、代わりに棺桶の蓋に似た土盛りが、草に覆われて二手に長く続いている。旅館の敷地には七本の木(杏の木のようだ)と、雪割草に似た紫色の花が二列に植えられている。花は密に咲き、触るとすぐに散る。通路はこの草花の間を通り、雨を弾いている。旅館は、木造二階建てである。二階に通じる広い階段があり、日本家屋ではどこでもそうであるように、ここの階段もたいへん急で、女中さんの勤勉さと泊まり客のスリッパとによって、よく磨かれている。


三 日本の旅館

 読者諸賢が日本の旅館へ来て、暖房の効く部屋を求めても、無駄である。十一月ともなれば、朝はうすら寒く感じられるが、部屋はどこも木の格子に白い紙を貼っただけの建具で仕切られている。部屋には、窓とかドアーというものは、一切無い。三方の壁は引き戸となっていて、三枚の板を張った狭い廊下へは素足で出る。廊下にはガラスの引き戸があって、冷たい秋風を防いでいる。ロシア人達は泥だらけの靴を脱いで、旅館に入った。ついでに云うと、旅館には四方のいずれからでも入れる。どこからでも、ガラス戸さえ開ければ、狭い廊下を通り、紙の戸を開けると、そこには畳を敷いた部屋がある。
 ロシア人達が自室に入ると、女中のオタケさんが炭を持って入って来た。部屋の真中に据えられた銅製の箱(これを「ヒバチ」という)の灰の上に銅製の箸を使って炭を丁寧に並べる。
 室内に「カケモノ」は無かった。床の間には大きな白い紙が掛けてあって、何行かの文字が縦に書かれている。襖の上の鴨居には、何文字かの漢字を書いた絹の額がある。
 ロシア人達は、南方の別荘にでも来た気分になった。見るものすべてが珍しかった。暖かい雨に打たれて背の高い竹が低くしだれ、その脇には秋風が吹く頃になって咲く白い花がほころび、藪の中に捨てられた黄色い百合は、根も無いのにしおらしく咲き続けている。ロシア人はゆかたに着替えた。太ったロシア人は、帯を何度締めても、すぐに腹がはだけてしまう。
 少し日本語の話せるコルチャク軍の元士官殿が旅館の女将と話し合って、宿代の取り決めをした。完全賄い付きで、すなわち一日三度の「ゴハン」付きで、一人頭二円である。
 小さな茶碗に入れた透明で黄色い日本の茶と、黒く漆を塗った丸い木箱に、鮮やかな緑色をした焼き菓子が出た。日本には、砂糖が無い。茶にも、食い物にも、饅頭にさえ砂糖は滅多に入れない。饅頭には酸っぱいものや、塩辛いもの、苦いものがある。
 一階の二つの部屋から、雨に煙る灰色の海がよく見える。その手前には竹藪と村の屋根が拡がっている。二階からは海ばかりでなく、秋になって葉を落とした杏の木の向こうに、門や電灯、草に覆われた土盛りや二列に咲く紫色の花、水たまりのある通路が上から眺められる。
 朝の廊下や階段は、スリッパの音で騒がしい。皆さん御起床の時間だ。女中が部屋に入ってきて「フトン」を片付けた。布団部屋に運ばれて、うず高く積み重ねてある。調理場では竈の火が燃え、「コックさん」が朝ゴハンを用意している。
東京からやってきて何日か宿泊している学生達が、廊下をぶらついている。口には長い歯ブラシをくわえたままだ。そう云えば、女将も「バントウさん」も、歯ブラシをくわえている。そもそも日本では、この朝の時間、どこでも見られる光景である。歯磨きの時間が長いので、歯を磨いていることを忘れ、歯ブラシを口に突っ込んだまま、母親は子に乳をやり、学生は教科書の復習をし、番頭さんは帳面付けに忙しい。
 太ったロシア人は「モトムラ」に「フロ」、銭湯があるかどうか、気になった。有るそうだ、但し、一日おき。
士官殿は、「モトムラ」に芸者がいるかどうか、気になった。
 「いますけどねえ、とても汚いんですよ。嫌な臭いがするし、湯上がりの時に見たんですけど、たちの悪い出来ものや腫れものが肌に有るんです」
オタケ(小さな竹)さんは、二十六歳。彼女の兄は中国の青島で歯科医をやり、もう一人の兄は、東京で弁護士をしているという。ロシア人士官殿が、彼女のお目にとまった。出目で赤い瞼の彼は、目が悪い。大きな口髭は、まるで二匹の鼠が鼻の下に座っているようだ。しかもその鼻は低くて上を向いている。その彼が、斜視で頬骨の出た黄色い肌の彼女に、気に入られたらしい。
 黄色い顔に狼目を付けたロシア人は、牛乳屋に興味を持った。牛乳は、彼が好んで止まないウイスキーやリキュールに効く薬だと思っている。大島の元村では、リキュールやウイスキーは置屋にしかないけれど、牛乳ならいくらでもあって、コップ一杯四銭である。


四 富士山
 
 雨が止んだ。日が射して、暖かくなってきた。竹藪の横、海の向こうに、真っ白なフジヤマが雄大な姿を現した。雲は、富士山と河津の町の間にたなびいている。ビロードのズボンをはいた、肥ったロシア人は、地図を見るのが好きなのだ。
 ここからは勿論、河津の町は見えない。ここからは見えるのは、灰色か淡紫色の海と、澄んだ青い山並みである。そしていつも見ることの出来るこの素晴らしい景色の上に、滅多に見ることの出来ない雪をいただく富士山が浮かび上がっているのだ。それは子供の頃、食料品店のウインドウ越しに見た、青い包装紙から半分姿を現した砂糖の山に似ていた。
 大島から見る富士山は鮮やかな姿を、青い山並みの上に浮かべている(東京からでは、これほど浮き上がっていない)。雪を頂く富士が、海峡の小島を誇らしげに見下ろしている。果てしなく拡がる大洋の眺めも、富士山にはかなわない!

 
五 ネエサン
 
 二階の部屋で学生達が酒を飲み、島の芸者達は手拍子と「シャミセン」の単調な音に合わせて踊っている。「ウリャ、ウリャ、ウリャ、コリャ、コリャ、コリャ」日本人達が何か訳の分からない妙な歌を唄っている。そんな日、オタケねえさんは朝の六時から夜の二時まで働き、駆けずり回っている。
 日本の旅館では、各部屋は紙の戸で仕切られているだけである。オタケさんはその戸を素早く、いとも簡単に開け閉めし、しかもどちら側から現れるか、分からない。彼女は自分の「ワラジ」を脱ぐのも素早く、素足で部屋の畳に上がってくる。
オタケさんは朝六時から、各部屋に「ゴハン」を運ぶ。彼女はおひつを脇に置いて畳の上に座り、平たい木のさじで飯をちゃわんによそると、客の一人ひとりに渡し、傍に控えている。ロシア人は日本人のようには、うまく座れない。飯を食うのに腹這いになったりする。ロシア人は、旅館中で滑稽な見物である。「ハシ(箸)」は飯を食うのに役立つどころか、むしろ邪魔だ。
 オタケさんはコルチャク軍の元士官殿に、学生が写してくれたという自分の写真を見せている。その写真の中で、オタケさんは洗濯物を干している。彼女の着ている安物の着物の裾が風でめくり上がり、細い腰にまとわり付いている。馬のしっぽのように硬い髪が風にあおられ、斜視で頬骨の出た彼女の顔をくるんでいる。オタケさんは、髪の毛を上で束ねただけの簡単な髪型なのだが、何時も乱れている。
 彼女はロシア人に、簡単な日本語を教える。外国人の変な発音を笑っている。男所帯の我々は、これを卑猥に発音してみたり、妙な意味に取れる言葉に置き換えたりする。いや日本語には、我々ロシア人の耳で聞くと、相手を罵るような響きの言葉が実に多いのだ。
 オタケさんは、いつも元気だ。彼女の人生は、生き甲斐と喜びに溢れているように見える。夕方になると彼女はロシア人の部屋にフトンを運んでくる。すると士官殿は彼女をからかうので、そのうちフトンの上でふざけて取っ組み合いまで始めるのだ。彼は寛大に、そしてやや猥褻にあしらっているのだが、彼女の方には、やや真剣なところが見える。けれども彼女が部屋を出るときには、ロシア人の足がフトンからはみ出さないよう全員の足元をくるみ、隙間風が入らないよう「ビョウブ」を立て直し、さらに数分間座ってから出てゆく。
 日本では高級旅館に泊まると、客が寝静まるまで女中は枕元に座って話し相手になってくれるし、物語を語ってくれることさえある。
 コルチャク軍の元士官殿が語るには、彼が定宿にしている東京の旅館では、女将の姪が日本の昔の詩を客室で語ってくれのであるが、何日泊まっていても、毎回違う詩を語ると云う。
 日本人には、慇懃で気取った態度と思える習慣が多々あり、今だ文化によって一掃されていない、ばか丁寧な旧弊が生き残っているようである。お辞儀をするときには鼻を床に付け、客が部屋の真ん中に座っているとき、女将は膝を畳につけてにじり寄る。
 オタケさんも、慇懃である。ロシア人達は、この勿体ぶった作法についていけない。ロシア人は、口のきけない獣同然であろう。しかしオタケさんとて同様である。無論ロシア人は彼女の中にある動物的な面を蔑みの目で見ることは出来る。彼女はまことに不美人である。スズカさんは二階から降りてきて、「ロシアの獣」を覗きに来る。彼女の前歯は三本が金歯で、眉を少し剃っている。顔は厚化粧で、目の周囲に紅をさしている。彼女の傍へゆくと、キモノの匂いがする。黒くて硬い髪の毛には、油が塗られている。彼女はロシア人に親切だ。しかし上からすぐ声が掛かるので、士官殿や狼目の画家の膝から飛び上がっていってしまう。


六 二人連れ 

隣室は一晩中、灯りがついていた。男と女のひそひそ声と忍び笑いが聞こえる。隣の部屋には日本語の解らないロシア人しかいないのだから、睦言だろうが大声でしゃべって構わないのに。日本の部屋にはドアも錠も無いので、こちらはゴーゴリに出てくる「箪笥で塞いだ扉」の陰で聞き耳を立てている好奇心の強い隣人のような心境である。  
 それにしても、なぜ興味を引いたのか、ビロードのズボンをはいた画家はリュウマチの足をさすりながら、隣室を覗く。そこには二十歳ぐらいの若者と、年の頃四十くらいの女がいる。頗るみすぼらしい女で、そのうえ右のこめかみ付近には大きな腫れ物がある。そもそも日本の婆さん達には、そういった出来物を持つ者が多いことに驚く。
 「偏頭痛持ちだな、息子のせいかな」と士官殿がいう。
 「なにが息子なものか、ありぁ彼女の情夫だぜ、醜女につかまったのさ」と未来派の画家。
 この二人連れに、我々ロシア人は理解に苦しむ。しかも若い男の方は、頗る幸せそうである。痩せこけて皮と骨ばかりの、しかも大きな出来物をつけた女を抱擁している。
 「日本人に接吻の習慣が無かったのは、幸いだな」
 「いや俺は今日、女が表通りで男児にキスしているのを見たぜ」
 「いや、あれは自分の子どもだから、身体中吸いまくったって構わないのさ」
 旅館の周囲には、他にも二人連れが沢山いて、じゃれ合うためだか御休憩だかに、ここへやって来る。だがロシア人の目から見ると、多少の例外はあるものの、妙な連中が多い。女はどれもこれも醜女で、女らしい魅力に欠け、胸はキモノで締め付けられてペシャンコだし、腰は貧弱、痩せこけていて、惹き付けるものがない。
 「ここはルーベンスの世界から、遠く隔てられてしまってる」とビロードのズボン氏は呟く。
「やっぱり、欧州女はいい!、横浜へ行って見ろ、ペシャンコな日本の女たちの中に突然、英国女性が現れたりするのだ、彼女たちも痩身だが、魅力的だねえ!」と未来派の画家。
 ロシア人には、この美しくない女性達が理解できない。彼女たちに見られる女性的なものといえば、髪型と気取った仕草くらいのものだ。
 ここの二人連れたちも、我々ロシア人には、とんと解せない。この国のいろいろな人達の、多分面白かろう物語なりロマンスなりがあるはずだから、せめてそれに一筋の光でも当ててくれる糸口なりヒントなりがあればよいのだが。かつてわが国のゴンチャロフ*1も、この原始的な状態にある当時の日本人達を見ているのだし。永く鎖国をしていたこの国は、外国と全く切り離されていたのである。
 暖かな秋の朝の光を浴びて旅館の周囲を行き交うこの男女達は、現代日本の都会から来た人達である。その都会では今や社会問題が先鋭化し、慇懃さで取り繕ったいがみ合いが多発し、日々の糧に困窮する人達が沢山いる。しかしここの人達は、忌まわしい生存競争とは無縁であり、多分、生涯生活には困らず、銀行に金を積み、呑気に人生を楽しむことの出来る人達なのだろう。日本には人目を避ける場所、「ホテル」が沢山あり、二、三円も払えば着るもの(浴衣)まで提供してくれるのだ。
 それにここでは、他の国なら見付けられるであろう共通語が、一言も見あたらない。
 彼らは何者か? ヨーロッパ人とは全く異なる体つきや習慣の中には、いかなる感覚が、いかなる緊張、いかなる色彩を帯びて巣くっているのか?
 他の国なら、身に付けている物を見れば、その人間の特徴、階層、暮らしの様子がある程度解るものである。ところがこの国ときたら、例えば木製の履物である「ゲタ」というものがあって、それは仕事の種類に関係なく、たまにおしゃれ好きが色塗りのものを履くぐらいである。オタケさんも下駄を履き、旅館の本館と離れの間を駆けずり回っている。廊下で履く「スリッパ」は、各部屋の紙壁の外に寄せ集められていて、誰でも共用である。お二人さんたちが着ているものについて云えば、男は女と同じものを着て、むしろ女っぽい。何でも同様で、うっかりするとつい後から頁をめくってしまう本も新聞もヨーロッパ人にとっては(感じとして)きわめて低俗で興味本位、冗長で表面的、軽薄である。この国の国民は倫理観から判断して中世の段階にあり、幼稚な文化を身につけている。
 ビロードのズボンをはいた画家はまた思う、「私は東京で、弓矢を売る店を見たことがある。そのよく磨かれた竹製の弓は、人の背丈より高いのだ・・・若者は文明なるものを、疎ましく思うようになった。彼は畳に座り、それから海岸に向かった。彼は伝統的な弓矢を再び手にとって、過ぎ去った過去に心の安らぎを求めていた・・・」
 以上に書いたことは、ヨーロッパ人の想像力には何ら働きかけるものが無い。何か一言、何か一つでも分かることがあれば、それで全体像が描け、それに幕を下ろすことが出来るのだが。ご婦人方の靴の形でもいい、似たものがあれば。片言でも、四分の一でもいい、言葉が聞き取れたら。下品な笑い、下手なジェスチャでもいい、理解する手がかりが得られるなら・・・。
 我々、ヨーロッパ人同士は、互いによく知っている。自分たちの好み、自分たちの関心事、状況、教育、こういったことはすべて、一筋の畝に植えられた同じ種類の植物と同様である。ところがここでは、美の感覚も、教育の程度も、知識の量と内容も、言葉が全く解らないという、この深い溝に架ける橋、丸木橋でもいい、それが無いために、我々にとっては未知で異質のものになるのだ!
 二人連れが次々と大島にやって来る。スカートのようなものをはいた男がいる。雨が降れば紙で出来た傘をさし、風が吹くと幅の広い袖が突然舞ったりする・・・。


七 黄金の船

 ビロードのズボンをはいた画家は、元村から海岸を北に向かって散歩するのが好きだ。村から数百メートル離れた砂丘の上で、船を造っていた。新型の船(といっても海洋艀ほどのものであるが)で、ほぼ完成している。船体には、滑らかに鉋のかかった板が張られ、黄金色に輝いている。未だ海水には浸かっていない。船は快い潮の香りがする陸の上で造られた。その甲板に最後の槌が振り下ろされた今、それは未だ理想、考え抜かれた構想のままである。この船は未だ実際の海を知らない。荒々しい時化の海に遭遇し、そのとき初めて、その構想に間違いの無かったことが確かめられるのだ。砂浜にそびえ立つ黄金の船よ、お前は未だ波の揺籠さえ知らないのだ。飽くなき嵐に弄ばれる運命さえ、待ち受けているのだ。
 お前はその嵐を無事乗り越えられるだろうか? お前の前途に拡がる海路は、静かな入江か、それとも有為転変の航海か?


八 墓地

 大島で見た墓地は、画家がかつて見たことのない大規模なものだった。高さ十数メートルの岸壁全体に深い穴が多数散在し、絡み合う灌木の枝に覆われて、薄暗い洞窟のようになっている。
 村人は波に洗われた丸い石をここに集め、丹念に石畳の道を築いた。
 このような穴は斜面の上にも下にもあって、石を敷いた通路や階段を登り降りして穴の中を進んでゆくと、死臭が感ぜられる。石を敷き詰めた場所に、御影石か砂岩の、苔に覆われた四角い石塔が、幾つも立っていた。
 岸壁全体がこのような墓地になっていて多数の穴があり、灌木の枝や岩に覆われている。細い道の上にはしばしば蜘蛛が網を張り、長い脚をその上に拡げている。蜘蛛は奇妙な花に似てピンク色の胴体に黄色い斑がある。
 これだけ多くの島民が、いつから住み着いたのだろうか?
 画家は墓地が好きではない。過去の命も古ぼけた塵と化した墓地は、大洋の海岸にふさわしくない。大海原から押し寄せる何千本もの指が、大島の黒い岸辺で石の鍵盤を叩き、葬送曲を奏でている。大島には、バラ色に輝く砂浜が無い。大島は黒い衣を身につけ、その裾を大洋が白い波のレースで飾っている。
元村周辺の岸辺は高くはないが、ごつごつとした岩があちこちに突き出ている。他の海岸の石は、波に打たれて丸くなっているが、ここでは波に打たれるほど、岸辺には尖った石が多くなる。所々、陸地から黒い岩が海中に突き出ている。黒いでこぼこの岩盤には窪んだ穴があって、上げ潮や波、雨で水が溜まっている。
 どうやら地殻を成すこの黒い物質は、水と同じように沸騰し、この海のように波立っていたようだ。


九 火山

 ある日、画家は元村の上に聳える山に登った。はじめは道があったが、登るにつれて高さ四、五メートルの壁の間を進むようになり、それは恰も城壁のようである。やがて松林を過ぎると視界が開けて、海の向こうに富士が聳えている。道は次第に細くなって、雨の流れで削られた河床に替わり、歩きにくい。この雨溝にはあちこちに裂け目があって、登山者が足を滑らせれば、すっぽり落ち込む。
 頂上に向かって一時間半も歩くと土の道は消え、細い裂け目に足を取られることもなくなった。足元は火薬に似た細かな黒い砂地で、進むにつれて乾いた砂は埃のように細かくなり、灌木の生えていないところもある。日没まであと一時間半もない。
 さらに数分歩くと、ロシアでは見ることのない様々な樹木の先に、大きな火口が見えた。
 画家の立っている場所から山は鋭く剔られていて、ここから見る断崖は、歪んだ円形劇場のようである。谷底は、全体が青みを帯びて薄暗い。この巨大なカルデラは、バスタブのようで、その一角が欠け、その向こうに海が見える。深い底の南側に、頂上が平らな円錐形の山が突き出ている。海から吹き寄せる雨雲が、円錐の山肌を取り巻いている。その噴火口から、白い蒸気が沸き上がり、風で千切れて流れ雲と一つになる。
 カルデラの頂上だけでなく、その斜面にも底にも草木は無く、その片鱗さえも見られない。青みがかった灰色の塵が、錆色に焼けた溶岩のところどころに堆積し、水の流れか風のいたずらか、縞模様を呈している。
 カルデラの底は、独特である。海を背景にした外輪山(その先は多分、海に向かって切り立った崖になっているのだろう)の底は、目測で約六キロ先から西に向かって高くなっていて、外輪山の頂上に至る。外輪山は西側と北西側で高く、カルデラの底は灰色の砂がところどころで円錐状に盛り上がり、南西域で円錐の山が外輪山と接しているところでは、外輪山とほぼ同じ高さまで盛り上がっている。
 画家は、青い有毒ガスに満ちたこの恐ろしい火口から漂う、不吉な死の感覚にとらわれた。沈みゆく太陽の光は、外輪山の頂上のみを時折斜めに照らして赤紫色に染め、丸い穴の中で風に吹かれて千切れる蒸気の帯は、不気味に揺らめいている。 
 太陽の最後の光が、円形劇場を縁取る外輪山の、いつの頃か出来た新しい噴火口のある南側を照らし出した。
 すべてが鉛色の灰燼に帰すこの絶滅の画面には、何か計り知れない無限の厳しさと無思慮が存在する。風景全体に、最後の絶望からもたらされる逃げ場のない、袋小路の憂いが感ぜられる。それは生きとし生ける物が得ることの出来る感情を越えた絶望と孤独である。
 火口から、大地のもたらす罪深い考えが沸き上がってきた。それは、皮肉な笑いを浮かべた悪魔、人間の心には不可解なやぶにらみの悪業である。
 画家は、かつて無数の見物客が群れて騒がしかった広い円形劇場の中の特等席に立っていた。しかし今は、誰もいない舞台が見える場所に「人間」が立っている。舞台のそこここに、壊れた小道具が積み上げられている。青い大洋の幕が降ろされ、背景となっている。舞台には、荒涼とした静けさが残った。演技は終わった。しばらくは再開されることもなかろう。劇場の鼠たちは舞台の奥に引き上げた。鼠たちは非人間的過去を演ずる役者の演技を見聞きしていた*1。
 いかに恐ろしい悪魔たちが、想像を超える天地創造のカオス、荒れ狂う酒宴の第一幕をこの劇場で演じたのか、画家は思いを巡らしていた。
 画家は、暗くなってこの細い危険な山道に取り残されることを危ぶんだ。
 日が沈むのは早かった。画家はその早さに負けないよう、急いだ。太陽は天頂から降りていった。画家は山頂から降りていった。太陽は海に沈んだ。画家も海に向かった。けれども太陽は、画家を追い越した。画家が道らしい道にやっと辿り着いたとき、周囲は闇に包まれた。画家は山道を下りながら、イロワイスキー*2がフン族について書いた一節を思い浮かべていた「銅板を張った楯を使って、彼らは凍り付いたアルプスの山肌を滑り降り、実り豊かなイタリアの谷を目差した・・・」。
 ビロードのズボンをはいた男だけが、この山登りを覚えていたわけではない。大阪で靴底の張り替えを頼んだとき、靴屋は画家の惨憺たる靴を眺めて、呆れ返っていた。


十 士官殿の話

 大島での生活は、単調だった。女っ気無しの生活の中で、各自がそれぞれ取り組んだ仕事に時間を費やした。
 大島の住民は、ビロードのズボンが、あるときは浜辺や通り、神社の古い松並木の近くに出て何時間も立ちつくしていたり、またあるときは神社の急な階段を背景に沈む真っ赤な夕日を描いているのを、毎日のように見ていた。その階段を一人の老人がいつも掃き清め、落ち葉を掻き集めていた。
 未来派の画家は旅館の自室に籠もり、芸者の絵を描いている。モデルはいない。モデルは彼の頭の中にいる。元士官殿はいそいそと近所の薬局へ出掛けては、綿だの包帯だの何やらの薬を買ってくる。もはや彼はこの道の通である。
 こうして一日が過ぎると晩飯を食い、畳の上でくつろいで、士官殿は自分の体験談をいろいろ話し始める。士官殿はまだ三十歳にはならない。彼はウクライナ人だ。言葉に訛りは少ないが、話の内容はウクライナが舞台になっていることが多い。それ以外にシベリアで過ごしたコルチャク軍時代の話もある。素朴な話であるが、真実味に溢れている。
 士官殿は、話が特にうまいわけではない。話の上手な人に、ときに出くわすことがあるが、そのような人は、芸術家というべきである。表現力があり、話術を心得、語彙が豊富で的確な言い回しの出来る人は、作家にも劣らない。しかし残念なことに、そのような才能があっても、多くの場合、評価さえされず、無関心で注意力の無い聞き手により見逃されてしまう。
 士官殿の過ごした時代は、混乱の世であった。彼は人生で幾度となく挫折を味わうことになった。彼はそこそこの美食家であり、呑気で、怠け者であるが、彼がそうなったのも、戦争に明け暮れた生活によるところが大きい。彼が大人になってから国内戦争が起き、その混沌とした世の中を渡り、大きな困難にもぶつかった。そのような戦争体験が彼の性格形成に、大きな影響を及ぼした。
 士官殿は、宴会と女遊びが好きだ。昔ローマにルクルスという宴会好きの富豪がいたが、そこまでいかなくても、フライパン一杯の焼き肉とグラスに注いだ何杯かの酒、赤く燃えた暖炉の火が有れば、たとえ貧しい家の中でも、戸外の冷たい風を避け、空想の世界に夢を膨らませて、豪華な宴会気分にも浸れるのだ。士官殿は過ぎた甘い日々を思い出し、我々に語ってくれる小さなルクルスであった。
 これから記す二つの話は、彼の話の中で最も面白いものだった。その話は、人生の嵐の中で日々の荒波に彼の心が擦り切れる以前の、彼の暮らしぶりを彷彿させる。それは、愛の喜びと苦しみに満ちた若き日々の追憶から出た、心の内を吐露したものだったのかもしれない。


十一 月の夜の眩惑

 「干し草を一杯に積んだ荷馬車が二、三台、ゆっくりと草原を進む光景を想像してくれ。ウクライナの草原は、五月の末ともなると、花が沢山咲いて、草の香りに満ちているんだ。荷馬車には、これからピクニックに出掛けようという人間達も乗っていた。顔ぶれは様々だったが、年寄りはいなかったな。一番の年長者は、俺が乗った馬車の御者であるシードル爺さんだ。歳は六十くらいかな。彼は夜目が利かなかったので、いつも若い者を隣に座らせ、ときどき手綱を握らせていた。
 同乗者には、女性教師もいたし、女学生、司祭の娘達、そして若い奥様方もいた。その中にひときわ目を引く女性がいたんだ。彼女の名前は、アンナ・スチェパーノヴナ。丸っこい、肉付きのよい女性で、金髪、目は青色、まあ、云うなれば、すべて理想的だった。我々と同じ町に住んでいて、薬剤師の亭主も一緒だった。この亭主が大変な変人で、夏も冬も、厚手のラクダでしつらえた同じ服を着ているんだ。右足がややびっこだった。つい最近、家を建てたときに、積み上げてあった丸太が崩れてきて、足の指を二本つぶしたからなんだ。この亭主がシードル爺さんの次に年長で、四十を越えていた。
 我々の馬車には、男のように髪を短くした、痩せぎすの女がいた。目つきも性格も暗く、はっきり云って、しつこい女なんだ。というのもこの女とは、以前ちょっとした関係があってね。ある冬の夜、冗談半分に彼女を口説いたんだ。彼女は俺の趣味じゃなかったけれど、俺も若かったから、エネルギーを持て余してたんだな。好奇心だけで、見境のないところがあった。ところが痩せた小柄な女というのは、自尊心の強いのが多いだろ。
 この女もうぬぼれが強くて、「あなた何するお積りですか、私を何だと思っているんです?」ときた。こりゃ駄目だ、嫌ならいいんだよ、他に当たるから。
 ところが暫くしたら、彼女から手紙が来た。いやこの手紙には、差出人が書いてなかった。でもこれが彼女からだというのは、すぐ分かった。けど俺の方はその頃、真剣になってた女がいたんで、その手紙には返事も書かず、ほっといたんだ。逢いにも行かず、まあ、軽く見てたんだな。
 ところが彼女の方は、むっときたらしい。さて今回、この女と乗り合わせることになって、しかも柔らかな干し草の上で、並んで座ることになった。すると彼女から、小声で優しげに話しかけてきた。
 「セリョージャ、私のこと怒らないでね、お友達になりましょ、今夜はいい夜になるわ・・・」
 話はいいんだが、暗闇の中で手はどこへもってったらいいんだ。「何するつもりなの」か、「あなた男でしょ」のどっちかだろ。よくある話さ。それで彼女は、この世のことをすべて知ってるつもりなんだ。本当は、学校の校庭で偶然キスをしたことがある程度だろうに。
 俺はそんなの、嫌だね。俺はその夜を、一生思い出に残るようにしたかった。そう、大勢でピクニックに出掛けるときには、欠伸などしてたら駄目なんだ。日が落ちる前に、まずお膳立てをしておく。でなきゃ、いい「材料」はみんな持ってかれちまうだろう。残ったどこかのドラ娘と一晩中月を見てるとか・・・、それともどこか藪の中にもぐり込んで、物欲しげに他人を覗き見するなんて、・・・なお嫌だね。
 我々はこの日、ベーラヤ・ツェルコビ*1へ向かった。プーシキンの詩*2にあるだろう、

澄み切った夜空、白亜の教会に照る月は、
古き砦をも、ゲットマン*3達の庭園をも
  光に満ち溢れさせる・・・

 現地には夜の十一時頃に着くよう、出発した。月の光が満ちて、詩と同じ光景が見られる時間を選んだわけだ。
 月はすでに昇り、草原は青い光に溢れ、ウズラの鳴き声が麦畑に響いていた。樫の木に覆われた川岸には霧が立ち昇り、熟した木苺の香りが漂っていた。
 俺は、ついてなかった。例の性悪女はいるし、 アンナ・スチェパーノヴナの脇には亭主が座っている。どうしようもなかつた。亭主は体がでかく、赤いあごひげを生やし、ポケットの中で蛇を飼っているんだぜ。話をしてると、この男の袖口からそいつが顔を出したりするもんだから、知らない者はたまげるさ。
 アンナ・スチェパーノヴナは、後に不幸な人生を送った。いつからかこの薬剤師の亭主と諍いが続くようになり、ある日、大声を上げて、表のガラス窓を割り、両手に深い傷を負った。そして棚にあった塩酸の瓶をつかむと、半分飲んでしまったんだ。勿論、彼女は死んだ。亭主はこの事件の後、町から姿を消してしまった。
アンナ・スチェパーノヴナは、まるで「ボヴァリー夫人」のようになってしまったんだ。しかしそれは後になって分かったことで、我々がこのピクニックに来た頃は、誰がどんな人生をこれから歩むことになるのか、誰も知らなかった。
 俺だって日本に来るなんて、思いも寄らなかったサ。それも一文無しで宿屋に借金を重ね、あんた達とこの大島で付き合ってるなんて。
 いや、話を元に戻そう。あの夜のことは、何年たっても覚えていると思う。といってもその晩に、特に何かあったわけじゃないんだが。
大勢でピクニックに出掛け、月に照らされた広い、木の茂った庭園にやってきた。綱を解かれた馬たちは、草原で草を食んでいた。石造りの建物が白く月に照らされていたが、それは古い番小屋だった。二人の農婦が干し草を運び込み、それを隣り合った二つの部屋の床に敷いて、その上をシーツで覆った。小さなガラス窓を通して月の光が射し込み、シーツの上に青白い四角形が照らし出された。室内にはハッカの香りが漂い、部屋の片隅には古びた大きなイコンが掛けてあって、灯明が点っていた。
月の光はこの建物の白い壁を浮き立たせ、外の庭園は昼のように明るかったが、日中と異なり、ぼんやりとした燐光のような光に包まれていた。南の海を航海した者なら知っていることだが、四、五メートルしか深さのない海は、南洋ではたいてい緑色で、底まで透き通っている。そこには地上では見られないファンタスチックな光景が拡がっているのだが、この月夜の庭園は、それによく似ていた。
 すぐに茶の用意をしてくれた者がいて、この番小屋の近くで屋外の夕食が始まった。小屋の番人が、ミルクや砂糖、漬物、パン、ピロシキ(肉饅頭)、ジャガイモなどを出してくれたし、大きな黒いフライパンの上で豚油を使って目玉焼きを作ってくれた。ある者は肉団子、ある者は鶏肉などを持参していたし、スミルノフ・ウォッカやブランデーも勿論あった。二、三十分もすると、みんな声がでかくなった。和気あいあいの雰囲気になり、それぞれの個性が出てきた。ある者は昔の城跡を見に出掛け、別のグループは釣り、残った者は酒を残さぬ意気込みであったが、大概の者は崖の方へ向かった。
 薬剤師は立ち上がり、「諸君、明日は八時まで寝ていて呉たまえ、但し私はいつもの通り、明るくなり始めたら起きる。ウラジーミル大公流に云えば、覚えているかね、お日様は決してベットの中に引き込むことはしないのだ・・・」、などと演説している。
 崖の近くは、確かにいい場所だった。菩提樹の古木が広い並木となって続き、周辺の雑草は最近になって刈り取ったようだ。所々、砂が撒かれ、古木の幹の脇には大きなベンチがあった。並木道は次第に下り坂となって森のはずれまで続き、周辺の灌木は白やピンクの花で覆われている。そこから急坂となって土の道が石や砂の川まで続く。
 川面は月に輝いていた。対岸には、ロシアのどこでも見られるように、広い川原が拡がっている。林の遙か遠くから、教会の沈んだ鐘の音が聞こえた。鐘の音を数えていた者が、十二時だ、と云った。
 「「一時間元へ」というのは、無いんだな・・・。俺達の村じゃ、寝ぼけた鐘突きがガンガン打ち鳴らしてサ、とうとう十三も打ってしまったんだ。シマッタ、明朝になったら笑い者にされる・・・。そこで一呼吸おくと、もう一回鳴らしたのサ、そして叫んだんだ「一時間元へ!」。教会は村から一キロほど離れていたが、夜の静寂に村の者みんながこの声を聞いた。驚くやら、呆れるやら、中には十三時と聞いて、何か悪いことが起こりませんようにと、迷信深い者は畏れおののいたほどだ。「飛んでってしまったものは、掴まえられない、鐘突きにゃ鐘突き流の数え方があるのサ」ということになったが、村の鐘に、鐘突きの威光を取り戻さなければならん」
 この夜、哲学にふける者は、少なかつた。殆どは二人組となつて、その場を離れた。ごくおとなしい者だけが、菩提樹の下のベンチに座って、物憂げな野鳥の声を聞いていた。俺はと云えば、ほんの僅かそこに座っていたが、例の性悪女とついに喧嘩となった。周囲にはすでに女性の姿は無く、俺は一人きりになってしまったが、だからこそ、並ではない女性を掴まえることも出来たわけだ。
 そのときのことを、自分では妙なこととは思っていなかった。並木道の先の一寸した坂道でつまずき、思わずそこに座りこんでしまった。そのとき自分は白いズボンをはいていたのだか、そんなことは気にしていなかった。かなり酔っていたと思うが、俺はエネルギーに溢れていた。うっとりするようなこの夜、自分の中に、感情が激してくるのを感じていた。月の光は、何千もの蜘蛛の糸となって、俺の目ばかりか心までも縛り、心臓の鼓動が次第に遅くなって消えてゆくように感じたのだ。目の前にはエメラルド色の、瑠璃色の丘がそびえ、そこには樫の古木が枝を伸ばしていた。白樺の幹は月の光に白く輝き、丘の下の低地は銀色の靄に包まれていた。
 それは、ファンタスチックな夜だった。ほろ酔い機嫌で歩いていて、ふと気がつくと、昔の建物の、廃墟の中に迷い込んでいた。崩れた煉瓦の塀はところどころ苔や蔦で覆われ、入口にはアーチ門があって、かなり以前に朽ちてしまったと思われる扉が、横倒しになっていた。入口を通って急な階段を降りてゆくと、地下に洞窟があった。
 俺はそこで何かに取り憑かれたような気分になっていた。そこには何かぼんやりとした影のようなものがあり、その影が自分の手前にあったり、自分の中に入り込んできたりするように思った。それはこの洞窟の中か、自分の心の中に棲むもののように思えた。その影は、自分の手を俺の方に伸ばし、青い目を大きく見開いて、説明し難い甘い雰囲気で俺を招き寄せていた。金色の巻毛が額にかかり、差し込む月の光と溶けあっていた。もはやここから逃げ出したり、目を外すことは出来なかった。その影は銀色の衣を揺らめかせ、ハレムの情熱的な胸元が露わになったかと思うと、官能的な太腿がうごめいた。その感情に抗することは、もはや無駄である。俺はその影に飛び込んでいった。それはまるで水面に映る自分の姿を掴まえるために、水に飛び込むように思えた。俺が飛び込んだために、その影は散乱し、俺の後ろに回った。哀願するような眼差しの、魅惑的な、扇情的なその影は、一瞬身を引くと薄れ、そのため、それを捉えようとする欲望にますます駆られるのだった。
 それはまるでこの世のものとは思えない、妖麗な姿だった。月下の麗人は、俺の目の前から消えなかった。月がすでに傾きかけた今では陰影がその長さを増し、夜霧は高く昇って、周囲は幻想の世界となっていた。  
しかし、天から降り立ったような、超現実的な、地上のものとは思えぬその優美な影の中に、どこかで見た記憶のある、地上にあって自分の知っている姿が、重なりあってくるように覚えた。その姿をもっとよく見たいとはやる心は、治まることがなかった。その姿はもはや俺から二、三歩の距離にあり、俺は彼女を抱きしめたいと思った。そのとき彼女は、樫の木が枝を伸ばす丘の上に立っていた。俺は手をかざして月の光を遮り、彼女を見据えた。それは自分の知っている、地上の人であることが、ますますはっきりと理解された。
 彼女が誰か、俺は理解した。俺は哀願するように、彼女に手を伸ばした。俺の体は肉欲に燃えていた。満たされぬ欲望にほてっていた。
膝をつき、もはや人の姿に変わりつつあったその影に向かって、俺は這い進んだ。しかしその影はなおも後ずさり、丘の斜面を降りていった。俺はその影に飛びかかった。その影は一瞬早く身を交わしたが、すでに女の姿となったそれは、白やピンクの花に包まれた灌木の列に行く手を阻まれた。疲労困憊し脱力状態となった彼女は、草の上に崩れ落ちた。胸は波打ち、手にはハンケチを握りしめ、目は涙に溢れていた。苦しみと喜びを湛えたその美しい青い目は、夜空に輝く星を天が与えたものだった。
 俺は彼女の脇にいた。柳の木にのしかかる熱い風のように、麦畑を焼き尽くす炎天の風のように、俺は彼女を両手で激しく抱きしめた。彼女は抵抗しなかった。俺の執拗な追求に、彼女はもはや疲れ果てていた。菩提樹の枝を通して差し込む月の光の下で、俺は今やはっきりと確かめることが出来た。それは、アンナ・スチェパーノヴナであった。俺の歓喜は、長く続いた。彼女は殆ど失神状態にあったが、彼女の唇や手は休むことなく、俺の体を求めていた。
 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか、やがて寒気が降りてきた。かすかに川の流れが聞こえている。月の輝きと夜明けの光が交差するこの青い目以外、俺には何も見えていなかった。乱れた息づかいと激情に駆られたうめき声以外、俺の耳には何も聞こえていなかった。俺はふと我に返り、彼女から離れ、立ち上がった。周囲を見渡したが、何も見えなかった。木の葉を揺らす風もなかったし、我々の体の上に枝をしだらせた灌木も、白やピンクの花を散らすことがなかった。
 俺はそのとき、はっきりと聞いたんだ、乾いた、悪意に充ちた笑い声を。その声は、憎しみと嘲弄、受け容れ難い愚弄に充ち、俺の心に突き刺さった。この嘲笑の毒は、俺の体の中に浸み込み、過ぎ去った夜の恍惚と幻惑からすっかり目覚めさせた。周囲には誰もいない、しかしその哄笑を再び耳にした。それは誰かがすぐ近くで、我々を真上から覗き込みながら、声を立てているように思えた。それからその声の主は、ゆっくりと藪の中に立ち去ったように思えた。アンナ・スチェパーノヴナがこの声を聞いたかどうかは、知らない。けれども彼女も立ち上がった。
 すでに周囲は、すっかり明るくなっていた。彼女は自分の肩にチェックの大きなショールを掛けると、その場を離れた。俺はその後をついていったが、それは今や二人に、何か結びつきが出来たからではない。夜明けの光は、彼女の愛くるしい顔を暗く映し出すことはなかったが、その目はやや凋み、雪の降る直前に見られる霞のような陰りが見られた。
 番小屋では、みんな静かに寝ていた。女性部屋を覗いてから、アンナ・スチェパーノヴナの手に口づけした。俺は二つのベッドが空になっているのを見た。
 再び外に出て馬車の脇を通ると、薬剤師のいびきが聞こえた。崖の縁を通る菩提樹の並木道まで戻った。もはや明るかったが、日の光は、水の中をくぐり抜けたような色調を帯びていた。曇りガラスを透して眺めるようだった。木の下のベンチに横になり、白や赤の花の咲く灌木に取り囲まれた昨夜の丘の斜面を、俺はぼんやりと眺めていた。


十二 性悪女

 突然、また例の嘲笑が聞こえた。それは昨夜の愛の回想から俺を再び引き離す声だった。俺は目を上げた。ベンチの上で腰を浮かし、後ろ手で菩提樹の幹に身体を支え、首を伸ばした・・性悪女が、なまめかした挑発的な姿で俺を見つめていた。
 「ハッハッハ・・・お楽しみだったのね ・・・ハッハッハ・・・それで、私はどうなるの、私では駄目なのね・・・彼女の方が感じやすいと思ったの・・・それとも彼女の胸の方が私のより高かったの・・・彼女の胸は私のより大きかったの・・・それとも私のようにウエストの細い女はあなたの好みではないというわけ?」
 起きあがって、彼女に向き合った。 彼女がベンチの上に立っていたせいだろうか、黒い絹のドレスに身を包み、朝日を浴びた彼女の容姿は、確かに端正に見えた。艶のあるドレスには大きな葡萄の葉が描かれていて、その蔓はこの若い女性の身体にぴったりとまとわり付き、その曲線を浮き立たせていた。彼女の胸は、確かに高かった。その葡萄柄の絹のドレスを通してでさえ、身体の曲線は刺激的であり、挑発的であつた。襟元を目の細かなレースが縁取り、その所々を黒髪の房が隠していた。黒髪は、細面の丸い額を包み、チェルケスのパパーハ*1のようであった。
 彼女には、山岳民族を思い起こさせる雰囲気があった。彼女の姿は、鐙に足を掛け、空中に投げられた短剣を捉える馬上の人を思わせた。事実、彼女は危ない火遊びに手を出したのだ。我々の関係は、もはや決定的になった。彼女は私をもてあそび、苛立たせた。そのことで彼女の感情はいっそう高じ、俺を待っていただけでなく、俺を支配したいという欲望に駆られた。
 俺は彼女に歩みを寄せた。
 「近寄らないで、・・・来ないで、・・・止まりなさい」
俺は両手を拡げた・・・
 「止まりなさい、さもないとあなたは一生、後悔することになるわ・・・」
 俺は止まらなかった・・・突然、彼女の手に光るものが見えた。このとき彼女は左手で菩提樹の幹につかまり、右手に握ったピストルを俺に向けていた。
 彼女は冗談のつもりだったと思う。しかしそれは、愚かな冗談だった。今度は俺が何でも出来る番だ。今や彼女の愛欲は、俺にとっては戦利品だし、復讐でもある。
しかし身体を動かした次の瞬間、乾いた発射音が聞こえた。
 「これが、お返しよ・・・」、彼女は憎々しげに呟いた。
 俺は歩こうとしたが、よろけて砂の並木道の上にうずくまった。彼女はベンチから降りると、ゆっくりとした足取りで番小屋の方へ消えていった。「スミス&ウェッソン」銃が俺の脇の路上に転がり、その銃口から微かに硝煙が立ち昇っていた。
 今、あの朝のことを思い出してみると、前夜の幻影がまだ付きまとっていたのではないかと思う。その幻影には、超自然的な何かがあった。この夜、俺の感覚は、すこぶる鋭敏になっていたのだと思う。後になって考えてみて、そのときに経験したことが次第に明瞭になり、理解できるようになった。その夜、俺の精神状態は、三つの段階を経ていたんだ。互いによく似てはいるけれど、性格の異なる段階を経て、俺は月の光の斜面から降りてきた。その斜面で俺は金色の、月の蜘蛛の糸に絡まれ、夜の地上に降りたった。そこでは赤や白の花が俺の上にしだれかかり、第三の人物をその花の斜面から降ろしたのだ。夜明けの並木道に俺は倒れ、砂の上に血を流した。
 夜明けは、この忌まわしい、呪われた出来事を、包み隠してしまった。冷たい汗に濡れた俺の髪の毛は額に張り付き、歯は砂を噛んでいた。俺は地面に倒れ、膝が痙攣していた。
 この時のことを俺は今、詳しく話しているが、だからといって、当時のことをはっきりと覚えていて、すべてが俺の目前で起きたこと、というわけでもないんだ。ピストルは・・・確かに発射された。すべて神経が高ぶった状態で見ていたわけだが、それは人間の目にとってありふれた観点だ。倒れてから、俺はすべてを歪めて解釈した・・・この事件は俺の下で起こったことではない、俺と同じ高さで起こったことでもない、霞の向こうを飛ぶ秋の渡り鳥のように、夕闇の中のコウモリのように、俺の頭上を、俺より高いところを通り過ぎた出来事なのだ・・・と。この事件に明瞭な、理路整然とした一貫性は無いんだ。
この事件を整理して、再現しようと試みると、撃たれたことは俺の意識の中で明瞭なんだが、その後がもやもやしてて、虫眼鏡で見るほどはっきりしている部分もあれば、霧に包まれている部分もあって、時間の空白もあれば、支離滅裂なところもあるんだ。
 これは意識に基づく異常な記憶だ。映画の画面に例えれば、手振れが常時あって、明るい部分があったと思うと急に暗くなり、時にはフィルムが切れてしまったりするんだ。
 それから暫くして、どのくらい時間がたったのか分からないけど、目を開けると、俺の顔の上に薬剤師の顔があった。朝日を受けたその顔は、紅く輝いていた。薬剤師は俺を起こそうとしたが、右足を突いたとたんに激痛が走り、再び地面に倒れ込んでしまった。こうして俺達のピクニックは終わった。」
 「誰にやられたんだって、聞かれなかったのかい?」と、未来派の画家が訊いた。
 「ピストルは俺の脇に落ちていた。だから自分で撃ったと、思ったらしい。何人かのご婦人は、例の性悪女がピストルを持っているのを目撃していたし、このピストルが彼女のものだということを知っていた。でもそれを俺に渡したんだと、みんな信じていた」
 「怪我はひどかったんだろう?」
 「手当が遅すぎたんだ。だからこの傷をいつまでも引きずる羽目になった」
 「その後、撃った彼女との関係は、どうなったんだ?」
 「それが面白いんだなァ。俺はこの足を引きずって、ハリコフへ治療に出掛けることにした。傷口はなかなか塞がらず、悩まされ続けたので、田舎から出て、馬車でコロマク駅へ向かった。七月の初めで暑く、埃が舞い、二頭の馬もハエやアブにたかられて、よたよたしてたよ。足は疼くし、寝不足もあって、イライラは極限に達していた。顔は黄色くなり、目は落ちくぼんで、俺はすっかり病人気分だった。コロマク駅へは、汽車の到着二時間前に着いた。駅前には、街道をはさんだ反対側に居酒屋があったので、馬車をそこへ付けた。御者は俺の脇の下を支え、広い建物の中へ連れて行ってくれたというよりむしろ、抱いていってくれたんだ。四つある小さな窓から光が射し込み、窓の外ではライラックの葉がその光を受けていた。部屋の隅のイコン*1には雄鳥の刺繍がある布が掛けてあり、白壁には、壺とそれにに挿した木の枝の絵が、青と赤のペンキで下手くそに描かれていた。床は土間のままで、足に伝わる感触は柔らかく、靴音はしなかった。俺はベンチに横になり、トランクを枕にした。
 寝ころんで、目をペチカの方へ向けると、何とすぐ傍に例の性悪女が座っているじゃないか。彼女は顔を半分、両手で覆い、俺の方には目を上げないようにしていたらしい。俺は彼女に呼びかけた。彼女は身震いをして、こちらを向き、腰を落とすと、ベンチから垂れ下がっている俺の手に頭を付けた。誇り高いいつもの態度とは、まるで違う彼女だった。
 「私は悪い女です。あなたは私のことを絶対に許さない、そうですよね?・・・あんなことをして、許されるものではありません・・・」
 そんなことを云われたせいか、俺も強いことは云えなくなってしまった。彼女が変わったことを知って気が抜けたのか、俺に対する恐怖心が彼女の目に表れていたせいか、俺に対する真心が感じられたせいか、彼女に対する苛立ちは、俺からすっかり消えていた。俺達は、仲直りすることにした。」
 「それでこの話は終わりか?、それきり、彼女とは逢ってないのかい?」
 「いや、傷の治療が済んでから、また逢ったよ。でも数回だけで別れた。性格の不一致だな、彼女はやっぱり俺の好みじゃなかった。彼女が俺に体を許したのも、俺に対する罪を少しでも償えれば、と思ったんじゃないかな」


十三 リウマチ

 未来派の画家は、自室から出ないで仕事をしている。ビロードのズボンをはいた画家は、外で写生をする。元村の通りを特に熱心に描いている。ビロードのズボンをはいた画家は、リウマチに悩まされていた。左足の疼痛は、昼間はあまり気にならないのだが、疲れて夜十時に床に就いても、十二時には目の覚めることがある。三十分程うとうとすると、やおら起きあがってフトンの上に四つん這いになる。それからいそいそと浴衣を引っかけるとスリッパを履いて、一階の狭い廊下を一時間半ほど飽くことなくうろつき回る。
 そのお陰で一時間ほど仮睡できるのだが、三時半になるとまた狭い廊下を這い回ることになる。廊下は片側が紙の壁で仕切られた客室で、夜の静寂に宿泊客の寝息が聞こえる。反対側はガラス戸で、その外側に夜になると引き出される板戸がある。廊下は薄暗く、二階に通じる階段近くで電灯が灯っている。その電灯から先の廊下は暗く、突き当たりのガラスが光って、狭い廊下の夜の静寂がある種の雰囲気を醸し出している。
 夜ごと悩まされるこの肉体的な拷問が、精神的な苦痛と結びついているのは確かである。廊下をゆっくりと歩きながら、寝ぼけて廊下の角に頭をぶつけないよう、手を伸ばす。この病のお陰で画家は風呂好きになり、一日おきに銭湯へ通っている。銭湯では一つの部屋が、男用と女用に仕切られている。仕切りは人の背丈ほどの高さであるが、脱衣場付近はほとんど開けっぴろげである。
 この病気のために、画家は「ユバ(湯場)」と称する、山から出る蒸気の風呂へも行って来た。湯場は元村から徒歩二時間半かかる人気のない山腹にあって、北風に吹き曝される日の当たらない場所である。そこに二棟の日本家屋があって、一つの棟には三部屋、他の一棟には厨房と四つばかりの部屋がある。宿の主は、他の日本人同様、痩せぎすの男で、一人三円を受け取った。この料金には朝飯代が含まれていて、米の飯と、きわめて強い腐臭のする油のかかった魚、それと煮ても焼いてもないのに煙の臭いが強い青菜を持ってきた。
 夜から朝まで、ここはまことに寒い。炭を入れた箱を部屋に持ってきたが、ひどく燻っている。しかし幸いなことにどの壁も風通しがよい。格子戸がところどころ黄ばんだ白い紙を貼ったものだし、あちこち破けているので、外の寒風が遠慮なく入ってきてくれるのである。昼時になるとまたしても、飯を櫃に入れ、その存在を辺りに知らしめる例の魚を小皿にのせ、煙の臭いがする生野菜を小鉢に盛って、運んできた。
 ヨーロッパ人、殊にロシア人にとっては、砂糖を入れた紅茶とパン、肉、大量の野菜を食べる習慣があるので、この食事ではあまりに少なすぎて、苦役である。 
 湯場そのものは、宿の建物から十歩ほど通路を隔てたところにあり、リウマチを患う画家はそこへ行った。山腹の岩室に引き戸があり、中は高さ約二メートル。床は約三メートル四方で、木のすのこが敷いてあり、その下から蒸気が出ている。出ている蒸気は僅かだが、天井も壁もすっかり水滴に覆われている。人はここへ入っても最初は暑いと思わないのだが、五分もいると蒸し暑くなり、全身に汗をかく。持ってきたタオルは、ぐっしょりだ。蒸気はすのこの下全体から出ているのではなく、すのこの下、岩室の中心に三十センチほどの孔が開いていて、そこに土管がはめてあり、そこから暖かい空気が出ている。それは丁度、冬に焚いたペチカの口から暖かい空気がたちのぼり、部屋の中を流れるのと同じであるが、ここの空気は湿った空気である。
 「ユバ」とは、日本語で硫黄の出る場所を指すようであるが、その湯場で、二人の日本人が寝て汗を掻いていた。一人は若い男で、膝の上に打ち傷があり、もう一人はやや年かさの連れであった。湯場は住民の間で、傷の治療に効果があり、リウマチもすぐ治ると信じられている。ここで治療したい者は、この蒸気の中に座る(ロシアのサウナに較べたら蒸気は遙かに弱い)。休憩のため時々戸外に出るが、これは温度差に慣れている日本人だけが出来ることだ。
 リウマチで悩んでいた画家は、夕方の六時に湯場の蒸気にあたった。それから十時まで寝て、周囲がみな寝静まったこの時間に、再び岩室に向かった。パイプから昼間より熱い空気が出ていて、二十分も過ぎると暑苦しく感じるようになった。足を腫らした若者も夜中になって湯場に入ってきた。画家が居ることに気付くと、親切にランプを持ってきてくれた。画家が喉を渇かしていることを知ると、冷たい水までコップに入れて持ってきてくれた。その一杯のコップの水が、何と旨かったことか! 
画家は思わぬ一夜を、地下から湧き出る熱気の中で過ごした。それは、恐ろしい大島の火山、荒れ狂う破壊の悪魔が静かに眠る、ほんの短い時間だった。


十四 恋の十二ヶ月

 湯場はロシア人の客には効かなかった。蒸気にあたった後、新鮮な夜の空気を求めて素足で冷たい通路を歩き、ほとんど裸のまま外に出た。そして元村の旅館の良さが、思い起こされた。そこでは腹一杯飯が食えるし、寒い山の上の湯場に較べたら夜も朝も暖かい。
湯場からは若い樅の木の梢越しに、うっとりするようなフジヤマが望まれた。画家は、夕日に染まる富士山をスケッチした。
 宿を出るとき、障子を開けると、その向こうに中年の女性と若い男が見えた。それは元村の二人連れだった。彼女は荷物を向こうの旅館に置き、手ぶらで歩いてやってきた。こめかみの腫れ物の治療に来たのだろう。それにしても注目すべきは、日本人達の性格と生活である。この貧しい林の中の旅館、破れた障子、湿っぽい擦り切れた畳、つまし過ぎる食事、ここであの二人は数日を過ごすのだ。金に不自由はなさそうなこの人達も、この国民の倹約ぶりがあればこそ、自由に旅が出来るのであろう。
 元村へ向かって山を下りながら、ビロードのズボンをはいた画家は、彼がかつて見た「恋の十二ヶ月」と題する色刷りの版画を思い浮かべていた。その版画では数ヶ月が極めてエロチックな光景に描かれているが、十一月になると暗い藤色の着物を着た男女が黄色い葉を何枚か付けただけの枝を背景に寄り添って座り、やつれて憂鬱な、疲労困憊した姿で描かれている。
 元村へ向かって歩きながら画家は、藤色の秋の夕暮れに寂しい宿を訪れたあの二人連れのことを考えていた。中年の女と若い男の風変わりな幸福感について、画家は考えていた。ヨーロッパ人には理解できないその不思議な心理について、考えていた。日本人は自然を特に好む。彼らは自然を求めて都会から逃げ出してくる・・・。
 秋の夕暮れに山を下りながら画家は、大島には泉の水がほとばしる小川が無いこと、大島は島全体が海から突き上げられた黒い焼けただれた石で出来ていること、彼が見た湯場の蒸気はそこだけに有るのではないこと、を考えていた。彼は、天気の良い昼下がりに散歩したとき、休火山の火口の片隅に新しい山が生まれていて、その円錐形の尖った頂上から、不気味な無人の山から、透明な蒸気の長い帯が立ち昇っていたことを、思い出していた。その蒸気の帯は山から離れると何百メートルも上昇し、互いに絡み合いながら舞い上がるその様は、光の射さない地の底に生えた、従って無色で青白い毒草の茎が、レース模様となって長く伸びていくように思えた。それはまた白い、透明な蛇が物憂げに体をくねらせ、大空でとぐろを巻いているようにも見えた。


十五 漁師達

 元村に戻って、また何日か仕事をした。海岸を散歩すると、海の向こうに雪を頂く富士山が夕日に映えていた。そのとき、漁師達の乗った船が元村へ帰ってくるのを目にした。それはこの付近ではどこでも見かける大きな木造の帆船で、波の高い岸を離れた沖で揺られながら、ウインチに巻いた鉄のワイヤーロープで岸に引き上げられる。
 沖に高い波が上がり、大きな音を立てて島の黒い岸辺にぶつかる。岸辺は石炭のように黒く焼けただれた噴石か火山灰、または溶岩が海に流れ落ちて出来た岩で、どこも火山がもたらした地獄の跡である。ここでは、溶岩が次から次へと押し寄せ、海に流れ落ちていった痕跡を、随所に見ることが出来る。それは激しくガスを吹いて逆巻き、冷えて砕かれ、流氷の如く押し流されて堆積した。
 そんな黒い岸辺に戻ってきた船を、波で砕かれた砂が柔らかなクッションとなってくれる場所を選んで引き上げる。そこは波飛沫が立たない、遠い大砲のように波が轟くこともない、切り立った岩から離れた緩やかな斜面である。何メートルも盛り上がった波が、緑色の大きな口を開けて岸に覆い被さる。波は砕けて浜辺一杯に白い泡を拡げ、それは恰も、平らな丸い板を次から次へと砂浜の上に拡げるようである。そんな波に乗って、船が近付いてきた。船には六、七人の日に焼けた、ほとんど丸裸の男達が乗っている。一人は舵を握り、もう一人は舳先に立って、輪にしたロープを握っている。岸にも男達が待機している。やがて船を波が四、五メートル持ち上げると、舳先に立った男はロープを投げた。岸にいた二人の赤銅色に焼けた裸の男が膝上まで水に飛び込み、ロープを掴んだ。その瞬間、彼らは波にかき消されて見えなくなった。波は轟音と共に岸で砕け、飛沫を巻き上げた。波が引くと他の男達もロープに駆け寄り、一斉に船を岸に引き上げ始めた。
 これは何でもない、日常の光景であるが、それは遠い過去の族長時代について多くを物語っている。船を引き上げる手伝いをすることで、漁師から幾ばくかの魚を分けて貰えるのだ。貧しい者は何艘かの船の手伝いをして、魚の糧を得ているのである。


十六 食器洗い

 元村の海岸で見た面白い光景の一つは、天気の良い日の二時頃、村中の女達が海岸に出てきて、木製の食器を洗うことである。桶や、炊いた米を入れる櫃である。
 大島では何でも頭で運ぶ。女は、三、四十リットルの水を入れた桶でも頭にのせる。この重い荷物を乗せて、山道の階段を下るのである。手には何も持たない。子どもの手を引くことは、よくある。誰かに逢うと立ち止まって、そのまましばらく話をしている。周囲に何か面白いものがあると、首だけをぐるりと四方へ廻す。
 食器洗いの日には大島じゅう、島の半数の女が海岸に出てくる。主婦は家中の木製食器を集めて、頭に乗せてしまう。それはまるで曲芸のようで、桶であろうと櫃であろうと、椀であろうと樽であろうと、頭の上にピラミッドを築いて運ぶ術を心得ている。だから岸辺は食器に囲まれた女達で一杯になり、海は食器の中で音を立てている。


十七 いにしえの記憶

 大島には、いにしえの記憶が沢山ある。それは溶岩の穴や藪の陰に隠された墓地であり、その藪の中を通る古代の塹壕のような道である。この道は何千年もの昔から使われていたので、島の地質が硬い岩石にも関わらず、これ程までに深く削られてしまったのであろう。島の生活そのものも、東京からさほど遠くはないのに、固有の風習が数多く残っていて、島民によって頑固に守られている。
 島の女達は今でも、細い溶岩の坂道を一段いちだん飛び跳ねるように歩いている。髪の毛は下に垂らし、背中に沿って編んであり、それはまるで、今では死に体となった恐ろしい大島の火山からかつて這い出した、黒い長い蛇のようである。
 その蛇は、今は島の奥深くに潜み、誰からも忘れられ、誰も思い出さないが、それは今日に至るも死の世界、太古の炎の墓場、灰燼の墳墓、噴石の石棺へと誘う。噴石はまるでへぼ彫刻家の手に握られた粘土のように、歪み、揉まれる。
 人は東京からここへ保養や遊興のためにやって来る。しかしこの島が、海の底から突き出た黒い、焼けただれた溶岩の固まりだと気が付くならば、拭いがたい、陰鬱な想いに駆られるはずである。それは一方で、常に危険を孕む、底なしの大海の消しがたい記憶であり、また一方で、怒り狂う破壊の悪魔がここに居たことの忘れがたい記憶である。常に脳裏にちらつく一片の土地の葬送の記憶。人間の理解の範囲を超えた恐怖にこわばり、石と化して残された狂気の老婆の顔を持つ大小の噴石は、驚愕と戦慄により悲壮なまでに歪め、押し潰された。


十八 ひとり身は、つらいよ

 元村の通りは細く、溶岩の地盤に深くくり抜かれている。元村に井戸は無い。水はすべて天水による。どの家にも大きなブリキのタンクが備えてあって、降水が屋根からトタンの樋を伝ってここに溜まる。元村はどこも電灯が完備されていて、公共搾乳場の屋根の下でさえ、明るく電灯が灯っている。
 ロシア人は、旅館の中だけでなく、どこにいても注目の的である。物見高い住民達が、見物する。通りを歩くと、床屋は客の顔に石鹸を塗ったまま放り出し、ロシア人を見に表へ飛び出してくるし、桟橋の上に立つ旅館の窓からはいつもかわいい女中さんが、金歯を光らせて手を振ってくれる。金歯は日本のどこでも見られる。日本では、仕事で書物を読む者は、すべて眼鏡をかけているが、金歯は社会的地位に関係なく全員が入れている。
 元村で見物すべき場所の一つに、床屋がある。散髪台は三脚用意されていて、三人の理髪師の一人は、女性である。彼女はもっぱら幼児を相手にしていて、母親に抱かれた赤子の小さな頭を見事に半分だけ剃り、髪を結い、読者諸君にもお馴染みであろう、あの日本人形の髪型に仕上げるのだ。
 それにしても元村での独身生活は、退屈だ。日本女性もしくは娘達とのお付き合いは、どんな策謀を巡らそうとも、元村では物理的に絶対不可能である。我らヨーロッパ人は常に衆人環視に晒されていて、その一挙手一投足に何百もの目が集まる。士官殿が蛮勇を奮い、選り好みを排除した「大島芸者」でさえ、我々を深く悲しませ、大胆な行為に出たことを後悔させたのである。旅館の娘は愛想よく笑顔を見せ、二階の窓から手を振り、仕事の合間に二階から降りてきてロシア人の部屋にも顔を出し、画家の膝の上でにっこり金歯も見せてくれるのに、である。
 オタケさんはといえば、夕方「フトン」を運んできて、その上で士官殿とじゃれ合ってさえ呉れる。オタケさんは「オールドミス」で、頬骨は出っ張っているし、髪はモジャモジャ、いつも裸足で、これといった取り柄もないが、彼女は士官殿に好意を抱いた。彼にとっては無用な運動は身体にさしつかえ、仕方なく相手をしているのだが・・・。日本人の性格を知る必要がある。好奇心はあるが自制的、そしてつましい。質素で控えめな日本人は、何事にも秩序を大事にする。行儀、礼儀作法を重んじる。日本人ほど繊細な民族は、この世界にいない。この特徴を優雅に身につけているのが、日本女性である。日本の女性は恋心にさえ気取った優雅な振る舞いを見せ、理性的に控えめで醒めた態度を示す。
 外国へもたびたび出掛けている、ビロードのズボンの画家は云う。
「日本の女の子は、愛情面ではパリジェンヌに似ているな。すべて計算づくで、金次第、その女性が占める階級、地位によるのだ。そこから恋の値段が決まるのだ。そこへいくとドイツの女の子は、召使でも主婦でも、センチメンタルで、選り好みしない繊細さを胸に秘めている」
大島にいる独身のヨーロッパ人は、退屈するのに事欠かない。「ミライヤ(未来屋)」と名付けられた旅館に宿泊するロシア人達の気晴らしは、仕事と睡眠、一日三回の日本食、寝静まった夜の廊下の散歩、それと四方山話であった。


十九 色恋に関する若干の所見

 ビロードのズボンをはいた画家は、ロシアの小話をして人を笑わせたり、マヤコフスキーやカーメンスキー、クルチョーヌィフの詩を朗読したりしている。未来派の画家は、短気を起こしたり悪態をついたりしてみんなを楽しませていたが、士官殿は自分の大冒険話を聞かせていた。士官殿は人から美男だなどと評されたことはないと思うが、彼はスポーツにいそしむが如く女遊びに精を出し、恋とは魚釣りに似たり、と心得ている。「釣人には獲物が向こうからやってくる(求めよ、さらば与えられん)」という諺は、正に彼に当てはまる。女性を獲得するのに、釣人としての特別な資質は要らない。誰にでも第一級の釣名人になる資質は有るのだ。しかし、針に餌も付けない、川にも出掛けない、では駄目なのだ。普通の人は女性を掴まえに出掛けようとしないが、それは怠惰であるか、または忙しいからである。スポーツと同様、女性を獲得するためには、時間も体力も必要である。
 快楽の釣人、女遊びに時間を惜しまぬ人間は、掛かる獲物は全くの偶然で決まることを心得ている。この遊びで幸運を射止める者は、自分の針に何が掛かるか、殆ど気にしてない。快楽を仕留める者、生粋の好色漢は、選り好みせず、獲物に執着せず、釣れた獲物をいとも簡単に捨てて、直ちに次の獲物を狙う体勢を整える。好色漢はエネルギッシュで、女にかけては飽くことを知らず、貞操感が無くて憐憫の情を知らず、「風の中の羽のように」移り気を看板に掲げる。つまり好色漢は、典型的な女性の性格を持っているのだ。
 他国の島で読むべき本も無い生活を送っていれば、人の話で空想の世界に浸ることになる。話は日常の細々とした出来事の報告になるか、もしくは一人の人間が常に喋るようになる。未来派の画家も、ビロードのズボンをはいた画家も忙しく働き、疲れていることが多かったので、士官殿が語り部の役を引き受けるようになった。出発を間近に控えた大島の夜を、ウクライナでの生活を面白く聞きながら過ごすことになった。大島での十夜、日本のデカメロンである。
 以下に記す話のあらすじを読めば、読者諸君は、文学的才能のない者でも心理的に満足し得る構想を組み立てることが出来る、という確信を持つことが出来るかもしれない。


二十 士官殿の物語、その二

 「俺は測量学校を卒業したばかりだった。その頃、俺は幾らかの財産を相続した。俺は若かったし、全く偶然に金が手に入ったので、いわゆる遊蕩も出来るようになり、友人達と違って、すぐ仕事に就くことはしなかった。
 俺のポケットマネーが少し減った頃、同級生だった友人達がK駅から二十五キロ離れたポルタワ県のR村で測量士として働いていることを知り、訪ねていくことにした。そこで俺はまずハリコフの高級店に寄って箱を二つ貰い、箱の一つには酒、もう一つの箱には酒の肴を詰め込んだ。
 酒の肴は、羊皮紙で包んだ上等のハムや有名な銘柄のソーセージ、薫製肉のいろいろ、魚の缶詰、各種チーズ、その中にはスイス産のもあった。菓子のたぐいも忘れなかった。女性用の箱入り高級チョコレートなどだ(豚肉だとか七面鳥は要らないんだ。でもチョコレートは田舎では滅多に口に出来ないのさ!)。もう一つの箱の中身は、詳しくは云わない。あんた達の気を滅入らせるといけないからな。それに話が長くなる。簡単に云えば、何種類かのウオッカと果実酒、英国産ウイスキー、特にブランデーは厳選した。リキュールもいろいろ揃えた。女性には、バニラやバナナ、バラの花のクリーム、ココアを用意した。
 俺がR村へ着くと、大騒ぎになった。箱を見て、感嘆していた。翌日は日曜日だったので早速、ダンスパーティを開くことにし、直ちに招待状を配った。
 招待したのは、近隣教区の令嬢達とそのお父様、お母様方だ。ポルタワ県のこの付近は人口が多いところなので、教会の管長、有力者、有名人を含めて、かなりの人数になった。招待状には、「ダンスの夕べを明日、ルブリョフ学校で開催致しますので、ご家族お揃いでおいで下さい…。P・S この夕べでは、少額の賭トランプも予定しています」と書いた。これなら聖職者の家族であろうと、断ることは出来ないだろうさ。
 近くの学校の女性教師はすべて招待し、地主の娘達も呼んだ。エスコート役の男性は、友達に頼んだ。五人だったか、七人だったか、教師、役人二人、農業技師、計理士、村の書記たちた。アコーデオンの巧い奴もいて、オーケストラの代わりをした。それに、このダンスパーティを開いた学校には立派な蓄音機とダンス用のレコードもあったのさ。
 一番大きい部屋を借りて、机を並べ、その上で例の二つの箱を開け、その他にもいろいろオードブルを並べた。隣の部屋には様々な家具を置き、さらにもう一つの部屋は「モンテ・カルロ」に仕立てた。二脚のトランプ台と普通のテーブル二脚、それにテーブルクロスを掛けて、ローソクを立てた。これで用意万端、整った。
 俺は、予めすべてをチェックした。俺は、こういう席での人の扱い方を知っている。一人がトルストイ主義者で、酒を飲まない、と云うと、みんな右へならえで、酒を控え、全員が聖人になって座が白けてしまう。今日の招待客のことは知らないが、友達の一人に、ベープカと呼ばれている者がいた。小柄だけど結構ませてて、いい奴なんだが、これが頑強に「飲まない」と云いそうだ。そうするとこの悪いお手本が、みんなに伝染してしまう。そこで、一計を案じた。俺は彼用に特別のカクテル、「デコクト」を用意したんだ。とても甘い、香りのいい酒で、独特の色をしている。クレム・デ・ローズに強い香辛料を加えるんだ。味はまろやかだが強烈で、しかも一杯飲んだら止められなくなる。
 八時頃になって、人が集まり始めた。このところ天気が良く、村では草刈りを終えたばかりだった。学校は放牧場にあり、その先に丘と森が続いていた。
 ああ、一つ忘れるところだった。俺は、花火が好きでね、何本か買っておいたんだ。昼間の内に杭を二本、森の手前に打っておいた。
 部屋の中は、うんと明るくした。入口とダンス用の部屋に沢山の人が集まり、やがて管長*1さんもやって来た。全員がかしこまって、壁沿いに座り、知名人達だけが管長の周囲で話を交わしていた。母親達は自分の娘を手前に引き寄せていた。皆さん、そろそろ腹の減る時分である。そうこうするうちに、こういう席に場慣れした者がまずテーブルにつき、料理を見回して満足気な顔をした。このようなパーティでは、若い者には、誰がホストなのか、見定めるのが難しい。我々は胸にリボンを付けたのだが、これはあまり役に立っていないようだった。
 俺は、壁際にピッタリと座っている母親と娘達に、前の方へ出るよう勧めたが、誰も出ようとしない。ベープカに応援を頼んだ。
 「パーティが遅れ気味でよかったんだよ。娘達の中に、まだ主賓となる人物が来ていないんだ。その子が来ないと、賑やかにはならないよ。まあ、地元の「スター」といったところだな。迎えの馬車がとっくに出ているから、もうそろそろ現れるはずだよ」
 俺は今度は壁際の夫婦連れにあいさつし、前へ出て食卓に着いてくれるよう促した。
 「それならあなた、まず管長様におっしゃって下さい。管長様に出て頂かなければ、私どもは何もできません」と、一人のご婦人にお咎めを頂いてしまった。いやまったく、仰せの通りです。急いで管長のところへ行った。
 「管長様、すべて食卓は整っております。お粗末な食事ですが、どうぞお席の方へ、お願いいたします」
 「有り難う。しかしこうやって見ると、アルコールが沢山あるようだが、私は飲まない人間だからねえ」
 「管長様、「シュストフカ」を一口だけ、如何でしょうか。ナナカマドの実で造りました自家製でございます」
 管長様は、同意した。実はベープカから、管長がナナカマドの酒に目がないことを聞いていたのだ。
 管長は立ち上がり、他の者もそれに従って、食卓に着いた。
 苦労したのは、我々が意図した席にそれぞれ着席してもらうことだった。若い娘達には、エスコートする者達の周囲に座ってもらい、母親達から離したかったのだ。
 これは、ほぼ成功したと思う。何人かのごく内気な娘達は、これに従わなかったが、それは残念に思うほどではなかった。俺は全体が見渡せる席、このパーティで特に気配りすべき場所が見渡せる席に座った。それは第一に管長である。管長の気分次第で、すべてが決まってしまう。今夜の天気を予測するバロメータのようなものである。管長の席には、ナナカマド酒を置き、続けてその傍にこっそりラム酒の瓶も置いた。この酒は、紅茶にもよく合うからだ。
 ベープカは俺の近くに座らせ、彼から目を離さなかった。彼が問題児であり、「デコクト」カクテルも用意したからである。これまでの経験から、他の者が手を付けない飲物を彼は飲もうとするだろうと、見当付けていた。このカクテルは、飲物というより、赤インクに似ていたのである。彼はきっとこれに手を付けると、確信していた。
 俺の隣の席は、明けておいた。例の「スター」が、パーティの真っ最中に現れるであろうと思っていた、または感じていたからである。
 そして、その通りになった。
 俺は管長様に何杯かのナナカマド酒を飲ませることに成功し、しかもそれにブランデーを加えて、度を強くしておいた。ベープカははじめ、飲まないと、意地を張ったが、俺が「デコクト」を注ぐと、素直に飲んで、後はこれも調子よくいった。
 管長の方を見ると、周囲の頑固者や控えめの者も管長に合わせて飲んでいる。会場は次第に賑やかになり、押さえ役のお母様達さえ、俺が持ってきたチョコレートの箱の前では押さえが効かなくなり、その内の何人かは、女性用に用意した甘い酒に手を出していた。
 何人かの先生達はすでに皿を取り替え始めた。例えば物理を教えているコフバシュク先生は突然、ある医者の助手をつかまえて、なぜ自分の席の前にあったソーセジを何皿も持っていったのか、しかもみんな平らげてしまって残してない、これは侮辱である、と喚き始めた。この件は、この先生の前へチーズを二皿並べたので、収まった。
 ここで俺は、ナナカマドの酒よりもスミルノフ・ウオッカの方が優れている、という話を持ち出して、管長様を話に引き込んだ。そして、「スター登場」の声がしたら、「彼女(酒)の前では、誘惑に勝てない」、と云って、話を切り上げようと思った。
 目を上げると、「スター」はすでに管長の後ろに立っていた。そこで「彼女(酒)の前では、誘惑に勝てない」と云って管長との話を切り上げた。彼女は私と目が合った途端、頬を染めた。
 周囲の者は、「スター」に席を勧めようとしていた。俺の席の隣が空いているのを見て、彼女をそこへ座らせた。
 俺は彼女を遠くから見ていたが、今や間近に見ることが出来る。やや官能的な唇に、かなり高い鼻をした、色白の女の子だった。一見したところ、それほど美人とは思わなかったが、彼女には独特の魅力、活発さが感じられた。肩幅は広く、ウエストは細かった。衣装は簡素で、丸く太い首に巻いた黒いビロードのリボンが、とてもよく似合っていた。
 彼女が俺の隣に座ると、俺はさらに詳しく観察した。彼女の眉は髪の毛よりも黒く、目の遙か上にあった。眉間は狭く、そのため彼女の顔はきつくなり、尊大に見えた。夕食に手を付ける前に俺達はすでに会話を始めていたが、それはまるで旧知の仲であり、暫く会わなかった友人同士のような雰囲気であった。
 「スター」が到着したときには、他の者たちは夕食を終わりかけていたので、そろそろ次のプログラムに移る時間だった。多くの人達が今日のダンスを待ちこがれ、暫く踊る機会のなかった者は、もうむずむずしているようだった。
 テーブルの向こう側が騒がしくなったと思うと、管長様が立ち上がった。
 「ダンスは若い人達にまかせるとして、我々年寄りは席を換えて、トランプでもしますか、ハッハッハ…」
 管長様はご機嫌で、食事にもご満足の様子だ。管長の後について、年輩者や偉いさん達は、すべてトランプ室に移動した。若い娘達は、ついにはお目付役の母親達からも解放されて、自由に振る舞えるようになった。会場は賑やかになり、パーティの雰囲気になった。
 娘達の間に、「スター」の対抗馬となれそうな子がいた。背が高く、スタイルもいいのだ。しかし度を超して緩慢な性格であった。例えば、こんな風である。
 「ジーナ、ダンスしよう!」
 「えーえ、いいわよーぅ」、間延びした返事をすると立ち上がったが、彼女の動きすべてが、緩慢であった。
 「ジーナ、キスしよう!」
 「そーねーぇ、いいわよーぅ」、彼女の喋りかた同様、その動きも、キスも、すべてのんびりである。
 「ターニャ、ダンスしないか?」、俺は「スター」を誘った。
 「今は、踊りたくないわ。今日は私、何だか思い切り飲んでみたい気分なのよ」
 「いいよ、それでも」
 俺は、いろいろな経験を積んでいる。夕飯前、目立たぬ場所に酒を二本、隠しておいた。そこで「カカオ・シュア」を持ち出した。テーブルから果物皿も持ってきた。
 「玄関先のポーチに行かないか、あそこなら、誰にも邪魔されないから、ゆっくり話が出来る。酒はこれだ」
 学校は比較的新しい建物だったが、放牧場に面してポーチがあり、幅の広い板で造った階段がついていた。俺は自分のダスターコートを階段の上段に敷き、これをテーブル代わりにしてリキュールの瓶と果物を並べた。
 月はまだ出ていなかったが、森の上の空はすでに青く染まっていた。村はもう寝静まった様子だったが、遠くから荷車のきしむ音が聞こえていた。草刈りに出て、山を下りるのが遅くなったのだろう。
 「じゃ、乾杯!」、とグラスをあてた。
 「何に乾杯?」
 「何でもいいよ、青春、今夜を祝って、友達になったことのしるしに!」
 「友達になれてよかったわ、私にはねぇ、あなたとはずっと以前からの友達のような気がするのよ。今日は楽しいわ、ジャンジャン飲みたい気分よ…」
 俺もこの子に関心を持った。この子が酔っぱらったら、どうなるのだろう。俺自身、夕食時にかなり飲んだし、今はリキュールが効いている。
 ポーチにベープカが出てきた。
 「花火を忘れてるんじゃないかい? そろそろ月が出るから、花火はその前がいいと思うけど…」
 俺はポーチを離れたくなかったので、花火の打ち上げをベープカに頼んだ。彼は承知した。会場の皆さんが、窓やバルコニーに集まってきた。
 森の脇でシューッという音がすると、一発目の花火が夜空をよぎって、森の上に揚がった。
 ターニャは飛び上がって、叫んだ。
 「走るわよ!…誰が一番早いか…」
 彼女が先頭を走り、俺は後を追った。俺は彼女を追い越そうとは思わなかった。彼女は懸命に、そして軽やかに走った。彼女の髪の毛は、肩の上で美しく揺れた。彼女がスピードを落とし、俺は追いついて、彼女の頬に接吻した。彼女は俺の口髭をそらそうと、のけぞったので、俺の唇は頬と顎についた。一度は彼女の唇にも接吻したが、彼女は俺を振りきって、森の方へ駈けだした。
 森ではベープカが花火の調整に、躍起になっていた。花火は、空に向けて発射され、闇夜でうまく破裂してくれるのもあれば、横っちょにスッ飛んで、藪の中で燃えてしまうものもあった。
 花火の打ち上げは、途中で止めになった。かなり酔っぱらった学校の番人が走ってきて、年寄達が干し草を心配している、管長様も、花火は止めてほしいと仰ってる、と伝えてきた。
 幸い、リキュールはまだ残っていたので、我々はまた階段に座りなおした。誰にも邪魔されず、室内からは音楽とダンスの足音が聞こえていた。リキュールを二杯空けるとターニャはダンスに行きたいと云い出した。今度は俺が、嫌だと云った。
 彼女が行ってしまうと、ジーナがバルコニーに出てきた。月が昇り、ゆったりとした彼女の身体を照らした。
 「ジーナ、飲まないか?」
 「いーわよぅ」、彼女はすぐに寄って来た。
 「ジーナ、キスしよう…」
 「いーわよぅ」、ジーナは同意した。
 俺は彼女のウエストを抱いた。月の光が彼女の明るい髪を照らし、目は静かに俺を見つめていた。彼女は抱かれても抵抗しなかったが、女性を抱いたときにいつも感じる感触が、彼女の身体には無かった。彼女は甘えることもなく、平静なままだった。
 突然ドアーの軋む音がして、ターニャが現れた。
 「あら、私の席、塞がってるのね。お邪魔のようね」、踵を返すと、彼女はまたダンスホールの方へ戻っていった。
 俺はがっくりして、自分にもジーナにも、何もかもすべてが、嫌になった。カカオ・シュアの瓶を手許に引き寄せると、最後の一滴まで飲み干してしまった。俺は、ダンスをしている方へ向かった。
 俺の足は、もはやダンスが出来る状態ではなかった。ターニャは、と見渡すと、ペトゥホフという、仲々の好男子と楽しそうに話をしている。
 俺は、隣の部屋に行った。そこでは小金を掛けて、トランプをしていた。俺は、そんなはした金で相手になる気分ではなかった。派手にやりたい気分だった。ポケットには百ルーブル位、あったと思う。何回かの勝負で、周囲の者を驚かせることになった。大当たりなのだ。一時間もしないうちに、俺の前に紙幣の山が出来た。更に一時間経って、何人かの者がおりた。スッテンテンになるのを恐れたのだ。管長様は何度も自宅に使いを遣る羽目になった。
 俺はもはや、トランプをすることに嫌気がさしていた。ターニャはどうしているだろう、出来れば彼女のもとに戻りたい…。また勝ってしまった、勝てば勝つほど、席は立ちにくい…。
 戸口にターニャがやって来た。俺に目で合図している。俺は負けようと思って、滅茶苦茶をやった。だのに、また勝ってしまった! 俺の前には、どの程の金が積まれていたか、正確にはわからないが、三百ルーブルはあったと思う。俺はその金を握ると、管長様に申し出た。
 「私は気分が高ぶっていて、勝負に集中できません。このお金は管長様にお預けしますから、このお金で勝負を続けて下さい」
 俺がポーチに出ると、月はすでに高く昇っていて、辺りは月の光に輝いていた。ターニャは上段に座り、手すりの柱にもたれかかっていた。傾げた彼女の顔の髪に、月の光が反射していた。俺は彼女の脇に座った。
 「何考えてるの?」
 「揺れ動く人間の感情のことよ。月の光のように、捉えがたく、触れることの出来ない…。私たちの今日の出会いは、とても意味があるように思うの。一時間前に会ったばかりだし、あなたに対して突然湧き起こった好意を、私は打ち消そうと思ったの。私はあなたに腹を立ててもいいはずなのに、どうもそれが出来そうもないの。でもそれは、あなたの中に何か特別なものがあって、そのためにあなたが私を意のままに出来る、というわけではないのよ。私には、これ以外の振る舞いは出来ない、と感じているの。今日の私は、何か無茶苦茶なことをしそうなの。今日か、もしかしたら明日、私は自分に対する見方を、全く変えてしまうかもしれないわ。今、私には、この世の中がとても大きな海のように思えるの、そしてその海へいよいよ出ていかなければならないのだわ」
 「ターニャ、もしかしたら君は、僕が感じていることと同じことを話しているのかもしれない…。僕は今日、君に会えたことだけで幸福感に酔いしれてるんだ」
俺はターニャを抱きしめ、そのまま何分間も黙って座っていた。開け放した明るい窓から伝わる人々の声に混じって、二人の心臓の鼓動が聞こえていた。
我々の前に突然、一人の御者が現れた。
「失礼します、ズミエフカから来ておられる先生方を、ご存じないでしょうか…」
ターニャは御者が喋り終えないうちに云った。
 「私が先にお願いしたのよ。あの人達のは、後でいいわ」
 「僕も行くよ!」
 「いいわ」、彼女は軽く返事をした。
 裏口から部屋に入って自分のコートと帽子を取り、ポーチに戻った。ターニャは二頭立ての馬車に座り、俺を待っていた。
 あんた達には口で伝えられないほど、俺はあのとき興奮していた。嬉しくて、胸がいっぱいだった。俺もあの頃は、純情だった。馬車がスピードを上げていたか、それとも道は凸凹だったか、覚えていない。麦畑の道を馬車に揺られながら、俺達は何度も何度も唇を合わせていた。
 青い柔らかな月の光に照らされたターニャの顔は、説明しがたい魅力に溢れていた。夜風が彼女の髪を揺らし、俺の額や頬をやさしく撫でるのだった。
 どのくらい走ったのか、どの方向に走っていたのかも分からなかった、多分、K駅に向かって、かなり長く走っていたと思う。月の光と朝焼けの明かりの中で、道の向こうに粉挽き小屋の立っているのが目に入った。
 「あそこに行きましょう! あそこなら二人だけになれるわ…」、胸をときめかすように、彼女が云った。
 御者に金を渡し(幸いポケットに金がまだ残っていた。かなりの額だったと思う)、柔らかな草地の上に降りた。麦畑を通る畦道に沿って俺はターニャの後を追った。
 粉挽き小屋は低い丘の上に立ち、少し先に集落があって、その向こう、明るくなり始めた地平線に、K駅の給水塔がかすかに見えていた。
 俺達は、燃えるような初恋の喜びを感じていた。それは肉体的な触れ合いというだけではなく、胸が張り裂けるような思いで、身体全体が上気していた。二人の身体はしっかりと絡み合い、肩と肩、額と頬が触れ合う感触を追い求めていた。ターニャの身体の中には、これまで彼女自身知らなかった肉体的な女性本能が目覚めていたのだと思う。
 「私をあなたの思いのままにして…」、冷たくなっていた彼女の唇が呟いた。
 しかし昨夜のパーティは遅くまで続いていたし、俺の身体にはアルコールがたっぷり染み込んでいた。果てることのない嵐の如き陶酔、そして最後に俺の体に火を付けた肉体的な欲望…。だがそのとき俺の全身から、すべての力が抜けてしまったのだ…。
 俺自身、分からない。俺の目の前に、落ちる寸前にまで熟れた実を付けた枝が、ぶら下がっていた。だのに、その実をもぎることさえ出来ないほど、俺の手から力が抜けていった。俺の目の前には、今やっと口に含むことの出来る、言葉に云い表せないほどの歓喜に満ちた、泉が湧いているのだ。だのに俺の唇は、その泉に触れながら、疲労困憊で開かなかった。
 ターニャは、ふと我に返った。外はすっかり明るくなっていた。俺は彼女の傍にゆき、彼女の身体を抱こうと思った。しかしそのとき、俺は彼女の目に涙が溢れているのを見たのだ。俺は女性の涙を見る度に、気が滅入るのだ。このときは、二重に気が滅入っていた。俺は、落ち込んだ気分になった。俺は自分自身に恥ずかしかったし、彼女に対しても恥ずかしかった。
 この感情は、説明さえ出来ない。俺は、侮辱を与えてしまったような、神聖なものを汚してしまったような、敢えて禁を犯すことに挑んだような気がした。
 外はすっかり明るくなっていた。村の女が、牛を追っているのが見えた。陽が昇り、放牧場の牛や羊が長い陰を引いていた。
 ターニャは立ち上がると、俺の方に振り返ることもなく小屋を出て、畦道づたいに俺達を待っている馬車の方へ歩いていった。
 「ご免なさい…」、そういう彼女の声が聞こえ、彼女を乗せて馬車は走り去った。
 俺は村で馬車を頼み、昨夜のパーティ会場であるR村に九時頃戻った。校舎に入ると、夜明けまで飲んでいたのだろう、全員が寝ていた。俺は自分のベッドが置いてある部屋までたどり着くと、倒れるように転がって、深い長い眠りについた。
 そして、ハリコフへ帰った。
 俺は、若かった。気分もすぐ変わり、心にわだかまりを残すこともなく、あの夜のことは次第に忘れかけていた。最初はそうだった、しかし暫く経つと優雅なターニャの姿が、また思い出されるようになった。過ぎ去ったあの夜の出来事を一つ一つ思い出そうとしている自分に気付くことが、何度かあった。こうして俺にとっては思い掛けず、たった一度逢っただけの女の子が古い丸太小屋の粉挽き場で見せた涙、麦の穂が絡む畦道が、忘れられない思い出になった。
 怠惰な生活を送る日々が続いた。
あるとき、俺はK駅の近くの友人宅を訪ねることになった。駅まで来ると、腹が減って、近くの居酒屋へ入った。店の窓の向こうに、例の粉挽き小屋が小さく見えていた。店の婆さんが、卵料理を持ってきた。俺は葡萄酒も一杯注文した。そのとき、婆さんが云った。
「わたしゃ、旦那のことをよく覚えていますよ。旦那は粉挽き小屋でおなごと御一緒でしたねぇ。わたしゃ邪魔になるといけないと思って、牛を追い立てたんですよ」
そして、ちょっと黙ると,突然こう云った。
「旦那はこの辺では、見掛けないお方ですねぇ。あの娘さんは、粉挽き小屋の近くへちょくちょく来て、暫く座っているんじゃけど…」
俺は訊ねた。
「ズミエフカは、ここから近いのかね?」
「森の向こう、五キロぐらいですよ」、早口にそう云って、笑った。
 その日、俺を待っている友人には、逢わずじまいになった。十キロほど馬車を走らせ、俺はズミエフカに着いた。
 池の畔に、小さな集落があった。家々の白い土壁が、水面に映っていた。司祭の家は、桜の木に囲まれ、何本かのポプラが立っていた。学校は閉じられていた。俺がうろうろしていると、隣家から白シャツに白ズボン姿の老人が出てきて、パイプにタバコを詰めながら云った。
 「タチヤーナ・ミハイロブナ様はだいぶ前に出掛けたけど、もうそろそろ戻ってくるはずだ。だから旦那はここで暫く待っているがいいよ。鍵はわしは持っていない、彼女が持っている。ポーチにでも腰掛けてるがいいよ」
 俺は腹が減ったので、老人にウオッカを瓶に半分、頼んだ。老人は、それに黒パンと塩漬けキュウリを添えてくれた。俺はグラス二杯だけウオッカを飲み、残りの処分を老人に頼んだ。老人はそれを満足気にたいらげた。老人の風貌は、ソクラテスに似ていた。頭は禿げていて、鷲鼻だった。よく喋る人で、何杯かの酒が舌の動きを更に滑らかにしたようだ。老人は、彼女がR村に出掛けて、朝帰りしたこと、彼女の性格が変わったこと、浮かぬ顔をして、馬車を頼んで出掛けることが多くなったこと、等々を話した。
 「わしゃ御者に訊いたんだよ、誰かに会いに行くのかって…。すると、そうじゃねぇ、K駅の方へ行く途中に粉挽き小屋があって、そこで降りて暫く散歩すると、また戻ってくるって云うんだ…」
 そのとき、馬車の音がした。ターニャは俺が来たことに驚いた風もなく、学校の鍵を開けると、俺を通してくれた。
 教室は一つしかなく、廊下を挟んで教員室があった。教員室にはベッドが置いてあって、白い掛けぶとんと枕があり、窓の前には机と二脚の椅子が置かれていた。窓辺にはコップに挿した青い花が生けてあって、何匹かのハエが窓ガラスを叩いていた。部屋はかなり狭く、部屋のドアがベッドの脚にあたるのではないかと、思ったほどである。
 二人はやっと逢えた。俺がどれほどターニャを待ちこがれていたか、俺にとって彼女がどれほど必要だったか、今やっと分かったような気がした。二人は部屋の中で立ったまま抱き合い、それから俺が机に腰を下ろして彼女をやさしく抱きしめた。狭いベッドの上にどうやって二人の体が投げ出されたのか、覚えていない。それは、早春の花園を吹き抜ける嵐の如く激しく、突風は枝々を折り、押し倒された木はその花びらを散らして紺碧の空を覆った。ところどころ覚えているような気がするんだが、レースの付いた彼女の下着はもみくちゃとなり、青いストッキングが白い壁だか、シーツだかの上で激しく動いていた…と思う。
 と、突然、ドアが強くノックされた。鍵がガチャリと床に落ちたかと思うと、ドアが開き、手にランプを持ったソクラテス老人が立っていた。
 「ランプを持ってきただよ。いま湯沸かしも持ってくるだよ」、何事もなかったように老人は静かな目で二人を見て、そう云った。
 演奏中にギターの弦を切られてしまったような、半分まで読んだ小説の最後の章をもぎ取られてしまったような、そんな気がしたよ…。俺とターニャは座って、ランプの火を見つめていた。湯沸かしから湯気が上がった。
 「学校を案内しましょうか?」
 彼女に誘われて、暗い教室に入った。大きな窓が三つあり、晴れた空に星が瞬いていた。俺の身体の中で、すべてが動揺していた。俺の病ともなって頭から離れなかった願望が、すべてかなえられると思った。約束の地へ向かう巡礼者の如く、教会の黄金に輝く丸天井を見上げる者の如く、はたまた礼拝の時を告げる教会の鐘の音を聞くが如く、あと暫くの辛抱で、自分の持てる力すべてを抛って、俺は聖なる祝福を受けることが出来るのだ…、そんな風に考えていた。
 村の学校の窓を通して差し込む星影が、青い神秘的な薄闇の教室を支配していた。俺は弾力のある若い女性の、悶える体をおのれの中に抱きしめた。二人とも、無言だった。俺達に言葉は無用だった。俺達は互いに理解していた。何故ならこの瞬間、俺達の心は一つになり、俺達の体は互いにすべてを知り合うための用意がととのい、(初めて)一心同体となる準備が調っていたからだ。
 彼女は衣服をまとっていたし、俺もスーツに身を包んでいた。スーツは勿論、必要なかったのだが、そんなことは気にしていなかった。俺はがむしゃらに、熱烈に彼女を抱きしめた。そして並べられた椅子の上に倒れ込んだ。
 と、またしてもドアが開いた。ランプを持って、あのクソ爺ぃが入ってきた。どうやら旦那とお嬢様が暗闇に座っているので、心配したらしい。しかし俺はもう怒り心頭だった。ランプを取り上げて、この爺ぃの禿頭に叩きつけたくなるのを、やっと我慢した。このあと彼は、干し草を一抱え持ってきた。ターニャはそれを教室の床に敷いて、俺のためにふかふかの寝床をつくってくれた。
 夜中に彼女は俺のもとにやってきた。俺は寝ていた。俺は夢を見ていて、その中では空想と現実とが奇妙に絡み合っていた。夢の中で俺は粉挽き小屋のある丘の上に、風に吹かれて立っていた。すると小屋が揺れ動いて、三人の娘に姿を変え、空に舞った。三人ともターニャに似ていた。俺はその内の一人を掴まえて、抱きしめようとした。するとその体は鉄に変わり、俺の唇は固い、冷たい物体に触れたのだ。俺は驚いてそれを地面に投げ捨てると、それは居酒屋の婆さんに変わった。
 「旦那さん、あの子があそこに座って、お前さんを待っているのに、見えないのかね…」
 俺が目を上げると、またもやそこにはターニャの顔をした子がいる。そこでその子を掴まえようとするのだが、掴まらない…。
 俺は目が覚めた。裸の足が俺の寝ている床板をたわめながら、近付く気配を感じた。それはターニャだった。窓からもれる星明かりの中で、彼女がドアの脇、俺から三歩のところに立っているのを、俺は横になったまま見た。闇の中に彼女の長いブラウスが白く浮き出ている。その上の方は三つの切れ込みがあって、手と胸とが薄ぼんやりと透けて見え、足がすらりと伸びている。
 俺は起きあがって、彼女に手を伸ばした。彼女は俺の膝の上に座った。暗闇の中ではあるが、今やっと俺は、彼女のふくよかな肉体の感触を得た。その引き締まった体は、花の香りに満ちるが如く官能の魅惑に溢れ、性の喜びを与える成熟した実は、落ちんばかりであった。
 ターニャは、新しい、皺のないブラウスを身につけていた。白く、冷たい感触のそのブラウスの胸で、二つの尖った膨らみが揺らいでいた。それは恰も白いカンバスの下に二羽の鳩を抱えているようだった。ウエストは細く、その下に広い、しかし形のよい豊満な腰が続いていることが、貪欲にまさぐる俺の手にありありと感じられた。丸い腿の肌には張りがあった。ターニャが入ってきた教室は、俺にとって息詰まるようなハレムに変わり、藁の寝床は東洋から伝えられた豪奢なソファに変わった。しかしながら、俺達の抱擁がどれほど長く続いても、あられもない姿で互いに体を寄せ合い合体しようとしても、二人の体は一つにならなかった・・・。
 またもや、こうなってしまった。俺が彼女を我物にしようとどれほど頑張っても、彼女がすすんで俺のもとに来てくれたのに、その情欲を完全に満たすことが出来ない。またしても、俺の身体から力が抜けていくのが感ぜられ、俺に抱かれた彼女に当惑と幻滅、癒されぬ渇きと疎外感を与えてしまった。
 ターニャは呟いた。
 「私がいま何を考えているか、分かるかしら。私はいま、粉挽き小屋のある丘のことを思い出しているのよ。あの日の朝のこと、覚えている? 私、あの小屋でしか幸せになれない、そう思っているのよ。あそこへ行きましょうよ、ねえ、そうしない?」
 俺は疲れて、元気がなかった。俺には彼女が何故そんなことを考えるのか、分からなかった。でもそのことは、口に出さなかった。
 「いまは夜中だよ。もう遅いし、ほら、月も出ていない。いや、雨まで降ってきた」
 実際、窓に雨粒が当たりだしたし、それがだんだん激しくなってきた。校舎の周囲で木々は雨音をたて、近くで雷鳴も轟いた。教室の中が時折、稲妻で照らし出された。ターニャは俺に体を寄せ、横になっていた。彼女の瞳が白い顔にくっきり浮かび、黒い大きな花が二つ咲いているようだった。こうして俺達は暫く横になったまま、夏の雷雨が通り過ぎるのを待っていた。雨が止み、明るくなってきた。
 ターニャは俺から離れて、自分の狭いベッドに戻った。彼女の目には、涙が浮かんでいた。しかしその涙は、別れの涙ではなかった。それは彼女自身も理解せぬままに零れた、言いようのない落胆と屈辱の涙だった。
 俺は打ちのめされ、もぬけの殻となっていた。俺は廃墟の如く眠り、根が腐って倒れた木の如く横たわっていた。巨大な恥辱の岩石が俺の人生の中に転がり込み、俺を踏みつぶす…、夢に見た俺の過去は、そんな風だった。
 俺はふと目が覚めた。俺がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、暫く分からなかった。俺ははじめ、昨夜訪ねる筈の友人のところに来ているのだと思った。が暫くして、昨日の夕方のこと、真夜中のことが思い出された。何かを思い出す毎に顔を染めなければならないほど、俺の過去は俺を追いつめていた。俺はそういう思いを自分から振り払おうとした。けれどそれは出来なかった。俺がターニャに逢った途端、ターニャが俺を見つめた途端、そこを去ることは出来なくなるし、彼女を捨てるなどということは、俺の力の及ばぬことだと、理解したのだ。しかしここに居残ることは、拷問が続くことであり、自分への嘲笑、彼女への侮辱以外の何物でもない…。そんな考えが、寝ぼけた頭の中に浮かんでいた。俺は目をあけ、起きあがった。目の前の床に、牛乳瓶と黒パン、キュウリが置いてあり、ドアの傍には洗面器に水がはられ、釘にタオルが掛けてあった。もう教室の中は明るく、太陽の光が射し込んでいた。
 顔を洗うと、空腹を覚え、村人の質素な朝食をとった。廊下に出て、ターニャの部屋のドアを叩いた。返事はなく、力を入れるとドアは開いたが、部屋の中は空だった。ポーチに出ると例のソクラテス爺さんが近付いてきて、よく眠れたかと訊ねた。先生はどうしたと訊くと、タチヤーナ・ミハイロヴナ様は朝早くお出掛けになって、行先は知らない、いつお戻りになるか詳しくは知らない、トランクを持っていったので何日か戻らないのかもしれない、と答えるのだった。
 昼をとうに過ぎていた。ソクラテス爺さんに馬車を頼んだ。三ルーブル支払ったので、顔中、禿げた頭のてっぺんまで驚きの表情を見せ、K駅を過ぎてハリコフまで運んでくれた。
 俺は相変わらず、余分な金を持った人間のする生活をしていた。金は日増しに減って、残りはもはや数十ルーブルになっていた。そろそろ仕事を探さなければならなかったので、ハリコフから何回か出掛けた。
 そんなある日、K駅近くへ出掛け、二頭立ての田舎馬車に乗って麦畑を走っていた。秋が近付く頃で、刈り入れ作業もほとんど終わり、先日の雨で運びきれなかった麦穂の束が、ところどころ残っているに過ぎなかった。道には、深い轍が出来ていた。道にはえた雑草は、ひっきりなしに通る馬車に上半分を切り取られ、道の真ん中にはえたものは、車軸から垂れるタールで黒く汚れていた。
 さほど長くはない俺の人生で経験したいろいろな情事の場面を思い出しながら、俺は馬車に揺られていた。若い者には、よくあることさ。勿論、ターニャのことも、また思い出した。彼女と過ごした色欲の場面、そして駄目な男で終わってしまったこと…。肉欲の舞台はいつも激しい興奮のるつぼと化すのだが、ハッピーエンドとはいかず、涙のフィナーレとなってしまうのだ。その舞台では、いつも何か予期せぬことが起こり、俺の活力に幕が下ろされ、癒されぬ渇望が残るのだ。
 俺の頭の中にターニャの姿が浮かんだ。彼女の戸惑い、彼女の腹立ち、彼女自身にもはっきりとは意識されないまま不本意に見せた涙、屈辱感、彼女の体の中に燃え上がった女性本能…。そんなことを思い出して、俺の頬は赤くなった。この記憶は、俺の中に男の自尊心をも呼び起こした。俺にはやりかけの事がある、それは簡単な事だが、この数年、脳裏から離れない大きな、大事な事だ。もし人が俺にターニャに逢いたいかと問うならば、やりかけた事を投げ出して彼女から逃げてはならない、女と天命は俺にそれをやり遂げよと命じていると、答えるべきだ…。
 俺は刈り取りの済んだ畑を眺めていた。秋の澄んだ空気は、遠くまで見通せた。白い馬車が走っていた。するとその馬車は突然、我々のすぐ手前、数十歩のところで、我々の道に割り込んできた。数分後、我々の馬車はその白い小さな馬車を追い抜いた。そのとき俺は向こうの馬車に、ターニャが乗っているのに気づいた。初秋の強い日差しを避けて、彼女は黒い日傘をさしていた。
 我々は停車した。俺はとても嬉しくなった。彼女はまたもや俺のすぐ傍らに現れてくれたのだ。俺にとって、かくも必要な人、彼女のやさしい栗色の髪、大きくて、やや野性味を帯びたその灰色の瞳を見ずに、どうして何日も過ごすことが出来たのだろう。今になって、彼女の艶やかで官能的な唇に、初めて気が付いた。今改めて、彼女を見直すのだった。彼女には、以前は気が付かなかった様々な特色があった。眉はやや上がり気味で、眉間にはいくらか皺があり、何か苦渋を秘めているように見えた。
 「あなたはどちらへ?」
「ハリコフまで。であなたは?」
「わたくしも…」
一時間後、我々は居酒屋に座っていた。窓の向こう、遠くの丘に粉挽き小屋が見えた。
それを眺めていると、突然、丘の斜面に座っている女の子が見えた。その子は黒い服を着て、白い首にビロードのリボンを巻いている。顔を覆う両手の肘が震えていた。彼女は泣いているのだ。皺になったブラウスを伸ばし、傷んだ下着を整えながら、夜明けの空の下でなぜ彼女は泣いているのだろう? 夏の夜の草原での恋がなぜ、戸惑いと苛立ち、涙と化したのだろう?栗色の髪を夜明けの風に揺らせているこの子は、なぜ弄ばれ、侮辱されたと思ったのだろうか?そんな思いが、冷たい秋の突風に舞う木の葉のように、驚いた鳥の群のように、俺の頭の中を駆けめぐっていた。ターニャも今、同じ事を思っているのかもしれない。彼女は壁に貼ってある、何枚かのおかしな写真を眺めている。上の写真は居並ぶ将軍達の写真で、前面に日露戦争のクロポトキン将軍もいる。将軍たちはハエに悩まされていて、何匹かのハエが偉いさん達の顔にたかっているのだ。下の写真は、居酒屋の婆さんの身内や知りあい達の写真で、皆さんかしこまっているのだが、一枚の写真では男がまめだらけの手で女の肩を抱き、女は両手で紙製の花束を抱えている。別の写真には二人の男が写っていて、二人の間に酒瓶があり、コップを持ち上げているのだが、それは恰も、これから毒をあおろうとしているように見える。他の壁際には戸棚が据えられていて、その上に二匹の石膏で作った犬の置物が向かい合わせに置かれている。金色のリボンをのせたその面の、何と間抜けたことか。
 俺達は、卵料理を注文し、俺はいつもの葡萄酒を飲んでいた。と、突然、汽笛が聞こえた。あわてて財布から紙幣一枚を引き出すとテーブルの上に置き、二人は駅へ駆け込んだ。幸い汽車には間に合った。
 ハリコフに着くと、馬車に乗り、改装したばかりの最高級ホテルへ向かった。
 ホテルの廊下は広く、電灯が明るく輝き、赤い絨毯が端から端まで敷かれていた。絨毯の上では足音が響かず、厚いドアは外の話し声を遮っていた。ボーイは俺達を大きなベッドのある客室へ案内し、俺は夕食にフルーツと葡萄酒、シャンペンを注文した。メードが新しいシーツを運んできて、手慣れた仕草でベッドを整えた。
 「私、明日はクリミヤ*1へ行くつもりなの。一緒に行きましょうよ。汽車の出発は、十一時半よ」
 「勿論、行くよ、ターニャ。いいなぁ、楽しいだろうなぁ。向こうに着いたらアルプカで部屋を借りて、青い海を見ながら過ごそう。ただその前に、うちへ寄って金を取ってくるよ、今持ってる金ではとても足らない」
 「あら、行ったら駄目よ。ここから駅へ直行して、クリミヤから手紙を書いて、必要なものを送ってもらえばいいじゃないの」
 夕食が、運ばれてきた。素晴らしいご馳走だった。食うや食わずの旅でここまで来ていたので、二人は夕飯をすべて平らげ、目を見合わせて笑った。人心地つくと、欲情がめらめらと燃え上がった。
 ターニャは田舎学校のことを、まるで心配していなかった。彼女がここで教師になってから、まだ日が浅く、それも金のためではなく、ただ人生の経験を積みたいからに過ぎなかった。人々のために役立ちたい、革命に参加したい、未来を近付けたい、そう思っていた。彼女は書物にも、実地にも、対応できた。彼女は上手な語り部に似ていた。本の価値はその本自体の価値とともに、それを読んで聞かせる語り部の心、注意力にもあることを、彼女は理解していた。
 二人ともたっぷり飲んで、やっとボーイがコーヒーとフルーツ、シャンパンを残して引き上げた。ターニャは俺を放さなかった。
 翌日、ターニャはクリミヤへは行かなかった。彼女も俺も部屋からは一歩も出ず、部屋は俺達二人のむんむんと熱気の立ちこめる愛欲の場となっていた。
 情熱的な陶酔や苦悩、興奮は、人生でしばしば遭遇することである。それは時間を一瞬の流れに変えてしまうが、その一瞬の光景について詳しく話をするのは、何より難しい。
 とうとう二人だけになれた。誰にも邪魔されない。俺達はこの世のすべてのことを忘れ、互いのいとなみに耽ることが出来るのだ。
 二人は裸になった。室内はごく明るく、ドアは閉ざされている。ターニャの身体から最後の一枚が脱ぎ降ろされた。俺の前に立った彼女は、弾けんばかりに輝く乙女の身体を露わしていた。明るい光は彼女の豊かに膨らんだ胸に美しい陰影を付け、細めのウエストは、唯一女性の力強さ、乙女の果断を表す幅広い腰と、一つに調和していた。生の名の下にすべての障害を取り払い、あらゆる条件を乗り越えて湧き上がる満ち潮は、あらゆる理性を投げ捨てた。
 愛し合う者たちにとって、誰に邪魔されることなく、初めて裸になって相手を見つめ合う瞬間というものは、大きな意味があるのだ。恋にはまず性が第一の要素であるが、次に大きな要素は、五感である。自分が激しい欲情に燃えて女を抱くときのことを想像してみてくれ、まず触角は、体の中で最も柔らかい部分の皮膚の感触、自然と伸びた手に伝わる体毛の感触を覚えているのだ。
 唇については、恋愛小説のどの頁にも書かれていることだから、いいだろう。
 嗅覚は、健康な若い身体から発散する芳香を捉えてくれる。しかし何と云っても肉体の喜びで最も大きな役割を果たすのは、視覚だと思う。白い身体の大海に出て波打つ航路を見定め、入江の曲線、白波の浅瀬を抜けて、果てしない愛の航海を満喫させてくれるのだ。視覚は、性の営みに第一の貢献をしている。視覚が有ってこそ、他の感覚も愛の喜びに調和できるのだ。五感のすべてを用いてその営みに耽る者は、大海に浮かび、あらゆる動力源を利用して進む船に似ている。
 ターニャは裸で、スプリングが柔らかく効いた心地よいベッドに身を横たえていた。俺達は貪欲なまでに求め続ける激情に体を震わせ、熱い抱擁と乾いた口付けを繰り返し、数分の時が何時間にも感じられることがあれば、一時間が一分にも満たないように思われることもあった。素っ裸のまま俺達は、ベッドを降りてテーブルに向かい、フルーツを口にしたり、澄んだ色の葡萄酒をグラスに注ぐこともあった。そして幾たびとなく、焦熱の太陽の下、実りの畑で愛欲の刈入れ作業にいそしむのだった。
いや、正直云って何か忌まわしい運命が、この愛の営みの度に、俺の上に重くのしかかっていたのだ。ターニャはベッドの上で身を横たえていた。均整のとれた身体に一糸纏わず、それはセクシーで挑発的であった。俺は彼女の白い足に沿って体を動かしていた。しかし恥ずかしながら、俺の身体の中に欲情の炎が燃えさかり、肉欲の城の閉ざされた門を俺は叩き、その門が開かれた途端に、俺の身体から力が抜けてしまうのだ。絶望感で、自分自身、情けなくなってしまった。そんなことが度重なり、ターニャは突然ベッドに座ると椅子の背に掛けたブラウスを取って身につけ、両手で顔を覆うと泣き出してした。
 「どうしたんだ、なぜ泣くんだ?」と俺が訊くと、
 「ああ、私はここでは幸せになれない、ここでは私は不幸せなままだわ。今夜も、あの粉挽き小屋の傍だったらよかったんだわ・・・」
 「でもあの時だって、今と同じように泣いてたじぁないか…?」
 「そう、でもあの時は私の過去を思って泣いていたのよ。私はあのとき、新しい人生への出発点にいるのだと、気が付いたのよ。あのときの涙は、幸せの涙と悲しみの涙が半々だったわ。でも今は、古い粉挽き小屋のあの夜のことを思って泣いたのよ。あのとき私たちは、身体を寄せ合っていた。それは一本の花が他の花に、うなだれるようだったわ。私たちの目は、朝焼け前の星の光、金の糸で結ばれていたわ。丘の上に立つあの古い粉挽き小屋、あそこで草原の英知が私たちに授けられ、私たちは祝福されたのよ…」
 冗談じゃない、俺にとってあの粉挽き小屋は、呪わしい、すべてのセックス危機の元凶になっているんだ。あの小屋が苔むした壁となって、ターニャと俺との間に立ちふさがっているんだ。俺達の体がひとつになることを阻んで、ほんの僅かな隙間さえ見せようとしないんだ!…
 俺は、いつまでも付きまとうあの粉挽き小屋の記憶が、つくづく嫌になった。俺のセックスを最初に失敗させ、そのあと何度も同じ目に遭わしたあんな小屋なぞ、どこかへ消えてしまえばいいんだ!
 そのとき、誰かがドアをノックした。一体誰なんだ、俺がハリコフにいることなど誰も知らないはずだ、誰が俺のところへ来たんだ?
 慌てて手許にあるものを身体に引っ掛け、名前も名乗らぬ訪問客にありったけの罵詈雑言を頭の中で浴びせながら、俺はドアを細めに開いた。ドアの向こうには、年の頃十五、六の男の子が立っていた。
 「あのう、旦那様が卵料理の代金に二十五ルーブルを置いていかれましたので、お釣りをお渡しするよう、母が私を使いによこしました…」
 そう云ってその子は紙幣やらコインをのせた手を、俺の方へ突き出した。そのときの俺の腹立ちようを、あんた達にどう説明したらいいか分からない。今度は田舎者の愚直さに邪魔されて、もう怒り心頭だったよ。
 俺はその子を怒鳴りつけ、舌打ちするとドアをぴしゃりと閉めてしまった。その子は何が何だか分からず、廊下の真ん中でさぞや戸惑ったろうと思うが、傍にボーイが立ってニヤニヤしてたから、お前がその子によく教えてやればいいんだ! ターニャは居酒屋の息子がやって来たと聞いて、驚愕した。
 「ほらごらん、粉挽き小屋が俺達のことを思い出して、俺達にも思い出させようとして、使いをよこしたんだぜ…」
 俺はもう本当に、あの粉挽き小屋が、小屋の思い出が忌々しかった。
 俺は酒をあおり、フルーツを口に放り込んだ。
 「ターニャ、飲もう! 古くさい粉挽き小屋のことなど放っといて、若い愛を謳歌しよう。小屋はああやって細々と一生働いているけれど、俺達は強制された仕事など、これっぽっちだって嫌なんだ。粉挽き小屋というものはそもそも、穀物をすりつぶしているんだ。命、若い感性、穀物の希望の芽をすりつぶして、粉にしているんだ。俺達は種を播き、新しい生命を持つ穀物を育てよう! ターニャ! 粉挽き小屋のために乾杯しよう、そして昔のことは忘れるんだ!」 
 二人は酒に酔い、体を寄せ合うことで更に酔った。唇には果汁の香りが漂い、甘い口付けが続いた。俺はシーツと毛布を床に拡げ、その広い寝床の上で二人は戯れ、転がり合った。そしてついに、待ちに待った恍惚の瞬間が俺に訪れた。情熱を秘めて俺に捧げられた体を、俺はついに征服した! ターニャは俺のものになった…。
 翌朝、ターニャはクリミアへ出発しなかった。丸二日、俺達は部屋から出なかった。そして二人は体力を消耗した。しかし気分は最高、天にも昇る心地で、この地上の楽園にいつまでもいたいと思った。もはや二人に別離はなく、生涯を共に過ごすものと思った。俺は彼女のためにのみ生きよう! 俺達はこれからの二人の人生計画を立てていた。明日はクリミアへ行こう。
 二日が過ぎた。それは二人にとって一瞬のうちに通り過ぎた二昼夜であった。この喜びの思い出は、これから始まる長い人生ロマンの第一章になる…、そうだろう、ターニャ?
 いよいよクリミアへ出発する朝がきた。ホテルの支払いを済ませると、俺の懐にはもはや現金が二十五ルーブルしか残っていなかった。
 ターニャを説き伏せ、彼女には先に駅へ行ってもらった。俺は三十分程で自宅に戻り、必要なものを取ってくることにした。家に戻って支度はすぐ出来たが、問題は金の工面だった。俺はお袋にすがることにした。
 「母さん、金が要るんだけど…」
 「あら、あんた、伯母さんの遺産、もう使ってしまったの?」
 「母さん、俺、急いでいるんだ、今そんな話をしている余裕はないんだよ…」
 「じゃあ、二十五ルーブルね…」
 「母さん、俺、クリミアへ行くんだよ…」
 「あんたがクリミアへ、何で?」
 「母さん、急いでるんだってば…」
 「じゃあ、五十ルーブル…」
 人の好いお袋は二十五ルーブルずつ増やして、結局二百ルーブルを俺はせしめた。金を受け取ると馬車を駅へ飛ばした。トランクを引っさげて切符売場へ駆け込み、制止しようとした体のどでかい駅員の脇をすり抜け、プラットホームへ走り込んだ。その瞬間、セバストポーリ行き列車の最後部の客車が、俺の目の前を通り過ぎた…。
 俺はクリミアへは行かなかった。がっくりして駅から出てくると、飲み友達に逢った。結局二百ルーブルすべて使い切るまで、飲んでしまった」
 「その後、そのスターのターニャには、逢ったのかい?」と、未来派の画家が訊いた。
 「もうこの話は飽きたろう、ほら、向こうの絵かきさんは、とっくに寝ちまったよ。俺の話で邪魔しちゃ悪いよ」と、士官殿。
 「いや君の話は、ビロードのズボンをはいた画家には、いい子守歌なんだよ」
 「そうか、物語には、エピローグってものが必要だな」


二十一 エピローグ

 「それから何年か過ぎた。俺の生活にも、いろいろなことがあった。その頃は忙しく働いていたが、酒の量も増え、相変わらず女の尻を追いまわしていた。女を掴まえるために、ダンスも下手ではなかった。ダンスパーティにはよく顔を出していたが、あるとき「ゼリョーノエ・コリッツオ」劇場で仮面舞踏会があり、出掛けていった。
 俺の周りで大勢が仮面を付けて踊っていたが、俺は仮面を付けず、フード付の黒いマントを肩に掛けていた。修道士といったいでたちだな。
 俺は、周囲で仮面を付けて踊っている者達の、仮面で隠されていない部分を眺めていた。女は仮面を付けていても、それ以外はみな見えている。隠されている部分はどうでもいいと思って、カラフルなストッキングで活発に動き回る足を見つめていた。あるご婦人は、肩の肌を出しているし、豊かな胸も揺れている。仮面で隠されているのは、女性の身体のほんの一部に過ぎない。けれども仮面を付けていると、それが誰だか、身近な者でも判断するのは難しかった。
 「修道士様…」と、俺の肩の上で声がした。
 「もう丘の上の粉挽き小屋のことは、お忘れでしょうか、朝日が差し始めた頃、お婆さんが牛を追っていましたね…」
 どきっとした。ターニャか? いや違う、彼女の声ではない、見掛けも違う、でもこの数年で彼女も変わったかもしれない、仕事にかまけて、このところ彼女を思い出すことも少なくなった…。彼女のことを忘れかけているのかもしれない。いや、それにしても、これは彼女ではない! 
俺は顔を上げた。そして仮面を付けた相手に腕を貸し、会場の隅に出た。ここなら人は少ない。ここで相手を見破ってやろう。
けれども相手は俺が仮面に手を触れるのを許さなかった。相手の顔は全く見えず、それが誰なのか、全く分からなかった。相手が俺のことを昔からよく知っている人間であることに間違いない。身近な者しか知らないことを知っているのだから。
「私の家へ、行きましょう」と、仮面は云った。
通りは昼間の雪解けで、ひどく凍り付いていた。子供達が、そり遊びをしている。
やはりターニャなのか、でもずいぶん違っている。俺が忘れただけなのかもしれない。俺は彼女を抱きかかえた。それは彼女が氷道で足を滑らせたからというよりも、あれほど親しくした人がいなくなり、そしてまた突然現れたことに懐かしさを覚えたからである。
いや待て、お前は人違いをしている。慌てるな、他に誰に逢ったか考えろ。
 居心地の良さそうなアパートの一室に入った。この部屋は、俺のことをいろいろ知っている人間の手で、片付けられている。俺の好きな料理が出ている…。酒の好みまで知ってるらしい! 俺をここへ案内した人間は、まだ仮面を外していない。彼女はダイニングの隣室へ、俺を連れていった。そのとき俺は予め目隠しされた。誰かもう一人の女が俺を抱きしめ、耳元で囁いた。
 「田舎の学校のポーチで、私たち二人がリキュールを飲んだときのこと、覚えている? 花火のこと、覚えている? 古い粉挽き小屋へ行ったこと、まさか忘れたんではないでしょうね?」
 俺はもう、じっとしていられなくなった。ターニャ!、俺は叫んで、目隠しをもぎ取った…」
 士官殿はそう云うと、枕の上に横になり、布団をかぶって寝る体勢に入った。
 「彼女に逢えて、ハッピーエンドというわけかい?」と、未来派の画家が訊いた。
 「誰と逢って?」
 「ターニャさ、彼女に逢えたんだろう?」
 「それが違ったんだなぁ、彼女とは結局あのとき以来、汽車に乗り遅れた後、逢っていないんだ。彼女がどこへ行ったか、その後どうなったか、誰も知らないんだ…。」
 「じゃぁ、そこにいた二人の女性というのは…?」
 「ダンスパーティで仮面を付けていたのは、俺の同級生だった。もう一人は、覚えているかな、あの学校でのパーティに来ていたのんびり屋のお嬢様、ターニャがポーチで二人だけにしておいてくれた、あのジーナさ。
 彼女に逢って、話をしながら、当時の無気力感は影を潜め、彼女も女っぽくなったなぁと、俺は思ったんだ…。
 そのあと俺は彼女と二人だけの時を過ごした。けれどもこの久しい逢瀬のときでさえ、行方知れずのターニャのことを、二人は思い出さないわけにはいかなかった…。」


二十二 住むなら海辺だ!

 もし大洋の島で生活することになったなら、住居は海岸沿いに選ぶに限る。そこから毎日、海が眺められるからだ。
 海は常に、心の糧を与えてくれる。海を見て、波の音を聞き、海の香りを嗅ぎ、海と共に生活するならば、日々新たな、新鮮な印象を肌で感じることさえ出来るのだ。海の水を舐めても、大海原の懐を知覚することは出来ないかもしれない。しかし食卓にのぼる数知れない海の幸は、我々の味覚を堪能させる。
 小舟に乗った我々が海水の流れに手を入れても、海からの感銘は得られないかもしれない。しかし海水浴の季節に海に入り、全身で泳ぎ、日に焼けた顔を洗うならば、海は強烈な感覚を肌に与える。
 海から家に戻ったときに、唇を舐めて思わず感じる塩味の甘さ! 人間の味覚の何とも名状し難い感触だ。潮風に吹かれ、波音を聞きながら、日に焼けた娘達の頬に口付けすれば、青緑色の海の味が君の唇に伝わるだろう。
もし大洋の島で生活するならば、住居は海岸沿いを選ぶに限る。海を眺め、潮騒を聞くことが出来るからだ。
生きとし生ける物、すべては海の精に育まれ、大海の胸の鼓動の一打ちで、打ちのめされる。
 海には海の喜びと悲しみ、心配と安堵がある。人間は、己の前に常に開かれた海の感情に、支配される。海には海の暦があり、海に棲む人達は、太古から伝えられたその暦に従って、日々の生活を送る。
 海には灰色の、不安げな日々がある。海は数知れぬ波の大群を追い立て、波は倦むことなく、絶えず岸辺を食む。海には、眩いばかりに光り輝く日々がある。海は純白の泡の衣を、岸辺に投げ掛ける。 
 海には、祝日もある。空と水とが大行進をくりひろげ、そこには歓喜にはためく無数の旗がひるがえる。
 ビロードのズボンをはいた画家は毎朝海岸に出て、海上の朝焼けを描く。それは絵具では表せない、新鮮さに満ちた香しい色彩の花束を、投げ掛けている。
 海は我々を楽しませ、退屈させ、元気づけ、心をなごませ、諭し、賢くしてくれるのだ!
 海から学ぶ生活を送る一つの条件は、開けた水平線が見えることである。水平線は、偉大なる聡明さ、揺るぎない信念を表す最高峰なのだ。水平線の直線は永遠を表し、平静を表す。その第一印象を、語らずにはいられない! 広く開けた水平線! その直線に感動した後に、数知れぬ波線の組み合わせに目が向くのだ。波の線は、自然の線だ。波は、一目見たときから目に馴染む。
 永遠と平静、そしてこの直線の下に繰り広げられる動の世界、絶えず鳴りやまぬ潮騒。
 海辺に住む者は、身近に、窓さえ開ければ眼前に、見渡す限りの海が見える。君はいつも、緑色をした、青い、紫色の、灰色の、黒い、大きな目を持つ海に、見守られているのだ!
 海の視線は、人の心に向けられている。人の心は盃であり、海に棲み、躍動を続ける生き物たちの力の反映が、注ぎ入れられる。 
 人の目は、不動の山々、平坦な野、人間の手が創造した巨大な建物を見ることに、慣れてしまった。しかし大空は、そこに一片でも雲があれば、穏やかな、もしくは激しい動きに満たされる。軽く透明な空気の中に激しい志向がある。しかし空は、物質ではない。
 海はこれとは全く違う。その動きが緩慢か、嵐の怒濤か、目は直ちに知覚する。人は重力の存在を理解する。絶え間なく動く大海の、水の重さを知っている。
 風と太陽は、山々を破壊する。その作用は穏やかで目には見えないが、確実に進行する。海では岸へ向かって、次から次へと生まれ出る破壊の波が、倦むことなく押し寄せている。だから、ちっぽけな陸地は、島は、心からの同情に値する…。


二十三 アルコールのプリズム

 大島で生活しているロシア人は、酒を全く飲んでいない。士官殿は体を壊し、酒を禁じられているし、二人の画家は毎日仕事に精を出し、手を休める気はない。それに元村ではビールと日本の「サケ」以外、何も手に入らないのだ。毎日欠かさず酒を飲んでいた者でも、この日本のバッカスが造った「サケ」は、どうも口に合わない。
 しかしロシア人は、酒の話が好きだ。酒の話となれば、士官殿の独壇場である。彼は酒飲みで、彼の話を聞くと、彼の人生には酒以外に何も無く、人生すべてアルコールのプリズムを透して受け入れたが如くに思える。
 遠近法には、こんな法則がある。何かある物を対象に描こうとする者は、その対象物と自分の眼の間に、その対象物の大きさの一・五倍の距離を置かなければならない。そうしないと、その対象物が歪んで見えるからである。ところがアルコールは、実在する物でも架空の物でも、すべてを眼前にまで近づけてしまうのである。そこで、酒を飲んだ者は、ある物ない物、すべてを異常な視角から見ることになり、普段なら全く問題ない者でも、正常な視点がずれることにより、判断が効かなくなり、混乱するのである。酔っぱらいには、世界が異常な、幻想的な遠近法で見えるのである。
 ところで士官殿は、訪日がすでに二回目だという。彼は以前にも富士山の近くまで来ていたのだ。しかし、彼の日出ずる国を最初に訪れたときの話は、短かった。


二十四 士官殿が日本へ行った話

 「この話はすぐ終わるんだ。もっとも日本には、ほんの三日しか滞在しなかったけどね。でもこの旅行は、普通の旅行じゃなかった。それに人に話すような旅行じゃなかったのさ。
俺は、ニコライ二世のときから軍に勤務し、長い軍隊生活で、N・Nという金持ちとも友達になった。彼とはウラジオストックでも一緒だった。俺達は海軍の集会に出掛けて、そこで海軍勤務の連中とも友達になった。その友達が、三日ほど日本へ行ける機会がある、「ジオミド」が明日長崎に向けて出航するから、我々と一緒に行って、同じ艦で戻ってくればいい、と云うんだ。
 「ジオミド」の乗組員達にも何人か紹介されて、一緒に行くことが決まった。そこでお祝いの乾杯さ。「お近付きのしるし」をやって盛り上がり、それからまた「航海の安全を願って」乾杯した。
 その軍艦に乗り込んだのは、何とか覚えている。いや、船酔いの薬には、酒を飲むのが一番なんだ。そこで航海中は、もっぱら船酔い防止に努めていた。間違いなく覚えているのは、船室に居たこと、そして周りのものがすべてごろごろ転がってたことだ。但し、海が時化てたのか、船が本当に揺れてたかどうかは、定かでない。
 いずれにしても、日本に到着し、我々はこれを祝って大いに祝杯をあげた。どうやって上陸し、そこがどんな処だったかは、殆ど覚えていない。ただ、我々を艦から降ろし、旅館に案内するのに、しらふの隊員達はさぞや苦労したろうな、とは思っている。旅館で一晩ぐっすり眠ったが、頭はガンガンしていた。
 「なあ、みんな、迎え酒やろうぜ」ということで、直ちに酒を調達した。とうとう飲み過ぎて、日本どころか、互いに誰が誰だか分からなくなってしまった。ペトゥーホフだと思ってよく見ると、髭を生やしているし、シードロフかと思うと、髭がない、顎髭があっても、鼻の下の髭が無かったり…。
 旅館からどうやって帰ったのか、誰が金を払ったのか、誰をぶん殴って、何を忘れたのか、全然覚えていないんだ。
 そして出航したけど、ムカムカは日本からウラジオストックに着くまで続いていた。
 これが、日本へ行ったときの話さ…。迎えの人間がみんな、日本はどうだった、何を見てきたか、って訊くんだ。何を見てきたかって訊かれても、瓶とコップと、それはまあ何とか区別は付いたんだ、一週間ぶっ続けで飲んでたからなぁ、その酒漬けの一週間が、日本旅行と重なって、何が何だか分からないんだ…、だから、話すことは何も無いんだ…」
 士官殿のこの紀行談には、みんな大笑いである。
 「日本には確かに行ったんだろうけど、その金はどこから出たんだい?」と、未来派の画家。
 「金は、たっぷり有ったのさ、N・Nが一緒だったからね。奴には貸しがある。だから俺は今、奴の金がシベリアから届くのを待ってるのさ。彼はシベリアに金鉱を持ってたんだ…」
 「そんなもの、革命軍にすべて没収されちまってるだろうが」
 「すべてかどうか知らないが、金鉱は確かに没収されてしまった。けど逃げ出す前に十何キロかの金を持ち出すのに成功してるし、それを安全な場所に隠したんだ」
 「見付かっちまうよ」
 「そう簡単には見付からない。エニセイ川に隠したんだ。針金の先に鎖で縛り付けて、川底に沈め、目印を付けといたのさ。絶対に見付からない」
 「彼が自分で隠したのか?」
 「いや、自分でじゃなくて、手伝ってくれる者がいたんだ」
 「じゃ、その手伝った者が、とうの昔に引き上げちまったかもしれないぜ?」
 「かもしれないが、そうでないかもしれない…」


二十五 飽きることのなかった元村

 出発の時が近付いた。元村に飽きることはなかったし、この小綺麗な旅館も悪くはなかった。それはロシアの建物とはまるで違った納屋のような部屋で、窓も紙張りなのだが、部屋の一角には畳を敷いた床の間があった。日本人にとっては、食堂も寝室も居間も、すべて同じ場所なのだ。
 煙突の無い茅葺き屋根と煤けた梁も、悪くない。細い道は、踏み石を一歩一歩気取って渡る。鼻輪を付けて引かれる黒と白の牛は、胸にミルクをぶら下げた上に、背中に荷物まで背負わされている。
 単調だが平穏な「ホテル」住まいも、それなりによかったのだが、出発の日が来た。
 ビロードのズボンをはいた画家は、日の出前に起床して海を見た。海は静かだ。これなら東京へ戻らなくても、小さな機帆船を使って対岸の伊東へ出られる、と思った。大島から伊豆半島の伊東まで、四十キロもない。


二十六 海を渡って

 船は、海岸から百メートルほど沖に停泊していた。帆柱が一本立っている船で、小舟がこの船に様々な貨物を運んでいる。ロシア人達は道中の糧に「ミカン」という名のオレンジをたくさん買い込んだ。
 「それ、ウシがもう一頭、その次があんた達の荷物だ、あんた達を乗せたら船は出るよ」
 ごく小さな船で、船尾に灯油エンジンが着いている。船の中央には先程の「ウシ」、白と黒の子牛二頭と、その上の上甲板に七人の客が茣蓙に座っている。乗組員は、機関士の他に四人。その機関士はエンジンをかけると、他の人間にお構いなく、吾関せずとばかりエンジンの傍で寝込んでしまった。
 帆が揚がった。乗客の座っている場所の風上側に、茣蓙とシートで壁がつくられた。何やら悪い予感がする。
碇を上げた。大島は次第に遠くなり、かすんでゆく。この大きな島は、対岸の半島との間の海を大半覆い、風を防いでいる。けれどもエンジンと帆のお陰で、この小さな船はすぐに風除けの外、大海原に出てしまった。その揺れのひどいこと!、甲板上では右や左へ、ダンスが始まった。
海は鏡面の如しとは、とんでもない!、船は一瞬、丘の上に登ったかと思うと、舳先に衝撃を受け、次の瞬間には奈落の底に落ちてゆく。波は真正面から襲いかかるとは限らない、横波があると船は大きくローリングし、進路は右へ左へと流される。波は下甲板から三メートルも盛り上がり、波しぶきが轟音をあげて舳先で砕けている。乗客はシートと茣蓙のお陰で波をかぶらないものの、そうでなければ塩風呂に浸かるようなものだ。
 海は鏡面などではない。海路には深い轍が刻まれ、騎兵部隊が潜めるほどの大穴が開いている。水の山は、見るまに谷となる。初めて経験する者にとっては、恐怖だ。凶暴な自然の前では人間が如何に弱い、小さな存在か、この驚きを心に描けば、それは何千枚もの絵に表すことが出来る。
 船がこんなに揺れるとは知らなかったので、はじめは少し怯え、船の中央にある桁に両足で踏ん張り、衝撃で転ばないよう両手で掴まっていた。
 だが次第に慣れた。今やロシア人達はエンジン室の屋根に腰掛け、心地よい風を受けて、元気も出てきた。太陽は、何千もの溶けたガラスの粒を、海に降りかけている。
大島は霞の彼方に遠ざかってゆく。大島は小さな島になってしまった。


 ダビッド・ダビッドビッチ・ブルリューク
 小笠原にて記す
 一九二一年二月十二日

              
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